プロフィール

Author:相坂一考
滋賀県大津市出身
07年1月に推理小説「執念」を文芸社から出版

このブログは3部康成です。1部が「コラム」、2部が連載「難病との闘い」、そして3部が、速報、「昨日の雅子」です。

 

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479 大変気の毒

 ヒット曲「おふくろさん」を歌わせないと、歌手の森進一に怒りを表明していた川内康範氏が亡くなった。二人の間のわだかまりが解消しないままの永久の別れとなってしまったのではないか。若し、亡くなる前に、そのことでの何か和解に関するような言葉が残されていなかったとすると、今後、森進一は一生そのことに拘りを持って生きていかねばならないことになろう。森進一の辛さを思うと、大変気の毒な気がする。そんなことを思う筆者には、次のような生々しい体験があるからだ。
 私事で恐縮だが、筆者の小学校時代からの友人が今年の初めに突然亡くなった。もう二十年近く前のことだが、或る時のお酒の上での私の失言、不徳の行為が原因で、その友人の大変な怒りを買い、幾ら詫びても許されず、長い間絶交状態となっていた。後で知ったことだが、その友人は、数年前に大病をわずらい、大変危険な状態にあったと言う。幸いなことに、友人はその後奇跡的に回復を果たされ、昨年の秋の同窓会で、筆者は念願の再会を果たすことが出来て、長年のわだかまりを解消することができた。二人の関係はその後急速に元通りの密な関係を取り戻たのだったが、今年に入って間もなく、突然の訃報が伝えられたのである。雪が激しく降る日の通夜が思い出される。筆者は、友人に奇跡の回復を促し、筆者との再会の場を作ってくれて、わだかまりを解いてくれた神に感謝している。今、こうして、そんな辛いわだかまりを持たずに生きていられるからである。それだけに、森進一の気持ちに同情するのである。改めて友人のご冥福をお祈りしたい。
 ところで、大変気の毒と言えば、日銀総裁や副総裁の候補に名前を出され、国会で所信表明までして、承認されなかった武藤敏郎、田波耕治の両氏、それに、今度、副総裁の候補に挙げられていて、民主党の結論待ちの副総裁候補の渡邉博史氏である。政争の具にされ、さらし者になっているようで、本人たちは堪ったものではないだろう。気の毒の中身は全く違うが、世の中にはいろんな気の毒さがある。なお、本件では、民主党内の亀裂が表面化するおまけがついていて、今日、明日の結論が注目される。
 
2.昨日の雅子(95)
 このところ平穏な日が続いている。言葉さえもう少し楽に通じたら、随分楽しくなるのだが、……。大変な辛い毎日だが、介護士さんたちの優しいアシストで頑張っている雅子の健気さが素晴らしい。

3.連載(444) 難病との闘い 第2部 小さな幸せを求めて(71)
  第三章 施設に戻って (17)

(2)介護士さんに囲まれて(その6)
 とかく、施設での生活は単調で味気ないものというのが外野席からみた一般的な見方だが、実際にここでの生活をしてみると、その辺りの対応に、いろんな知恵と細かな配慮をしてくれているのが分かる。
 特に、健康管理に関しては、血圧測定、検温が毎週、体重測定が毎月一回行なわれている。また、附属のクリニックの医師が定期的に回ってきて問診などを行なってくれている。更には、年一回のいわゆるドック的な検査も行なわれる。
 また、個別の症状に応じた将来の危惧についても、踏み込んだ検討も考えてもらっているようで、こと、健康に関しては、安心して任しておけるように思われる。
 他方、とかく単調になりやすい環境下で、気分転換を兼ねた企画も積極的に取り上げられている。それらは季節、暦を織り込んだきめ細かいものである。例えば、お正月明けに、急遽、雅子が施設に帰還した際には、ちょうどニューイヤーコンサートが行なわれていたし、節分では日吉ユニットの皆が揃って豆撒きを楽しんだ。また、おひな祭りでも、ロビーの奥に御雛様を飾って、その雰囲気を盛り上げていた。単調な毎日に、いろんなタイミングを捉えて、入居人への心遣いや楽しませる企画を用意してくれているのである。
 また、誕生会と称して、居住人の誕生月には皆と歌を歌ったりしてお祝いする会もある。1月の誕生会では、雅子もそのお祝いを受けたのだった。長い結婚生活で、1月3日生まれの雅子には、お正月気分の中で、誕生会なんて無視されていただけに、格別な思いがあったに違いない。
 更には、、いろんなイベントが考えられている。例えば、お買い物ツアーと称して近くのスーパーに出掛けたり、場合によっては、近くのファミレスでの食事会なども企画されている。また、お天気のいい日には、外を散歩したり、屋上に出て景色を眺めたりするようなこともまめにやってくれる。少しでも、楽しい日常生活が送れるように、細かく配慮、企画されているのだ。そういう際には、グループだけの介護士さんだけではなく、別のグループの方や、看護師さんたちも協力して盛り上げてくれる事もある。
 いずれにしても、居住者の健康管理と楽しさ提供に鋭意取り組んでいる対応姿勢は、この種の施設での大きなセールスポイントと言えるのではないだろうか。(以下、明日に続く)

タグ : 森進一 川内康範 おふくろさん

465 人生の宝物

 心地よい二日酔いでこのブログを書いている。それというのも、昨夜は、久し振りにお会いしたお二人とご一緒したことで、羽目を外すほどおいしいお酒で舞い上がっていたからだ。お二人とも、仕事を通じて知り合ったのだが、筆者が現役を退いた今でも、こんな素晴らしい関係が保たれていることに、人生の幸せを覚える。
 一人は、まだ現役ばりばりの繁和産業社長の東代清隆さん、一人は、元東邦化学取締役だった遠藤政二さんで、三人で席を共にしたのは昨夜が初めてだった。
 東代社長は、以前のイメージとはお変わりなかったが、厳しい経済環境の中で経営を司っておられるどっしりとした貫禄が今まで以上に滲み出ていて、さすがだという印象だった。同氏には、昨年に筆者が初めての本「執念」を出版をした際に、望外の力強い応援を頂いたのが嬉しく、感謝、感謝の連続だったのを思い出す。また、筆者の会社の仲間だった何人かが、今では社長の会社でお世話になっているのも、嬉しい話しである。
 一方の遠藤さんは、筆者が東レから出向して、新しく設立されたトーレ・シリコーン(今の、東レ・ダウコーニング)に移って、初めて営業を担当していた時に、重要顧客の一つだった東邦化学の技術責任者だった方である。今では、悠々自適の人生を楽しんでおられるのだが、その容貌は、当時とは大きく変わっておられ、普段着姿の親しみがあった。海外にも繁く足を運んでおられるのだが、いわゆる観光地を巡るのではなく、スマトラ、ニューギニア、更にはサハラなどの野性味溢れ世界を廻ってでおられる辺りが並みではない。
 そんなお二人と昔話に花を咲かせたひと時をエンジョイしたが、気の置けないお二人との会話に、介護疲れだった魂が洗われたような心地を味わった。素晴らしい友人は、人生の掛け替えのない宝物であるとつくづく感じた一夜だった。

2.昨日の雅子(81)
 この日の午前中にお墓参り済ませたことを報告すると、ほっとした表情で雅子は「有難う」と言ってくれた。前日に、雅子から頼まれていたのだ。最近ではこのように細かなことにも気を遣う雅子が多く見受けられる。特記事項なし。

3.連載(430) 難病との闘い 第2部 小さな幸せを求めて(57)
  第三章 施設に戻って (3)

(1)定着への頑張り(その3)
 施設に戻って、三日目の1月10日は通院日だった。幸い、この日も好天だったので有難かった。もともと、この通院を済ませてから、施設に戻って来るつもりであったのを、自分の介護の限界を悟り、桜井係長さんのアドバイスで、急遽、施設に戻っていたので、施設からの初めての通院となった。
 病院の予約時間、2時30分なのだが、この日は、その前にMRIを撮影することになっていたので、1時間前には到着していなければならなかった。そのために、多少の余裕を考えると12時前には、この施設を出なければならない。
 従って、昼食は皆さんとは別に、11時過ぎに一考が用意したカステラ、みかん、それにソフトドリンクで、簡単に済ませた。そして、お薬、歯磨き、トイレの一連の段取りを済ませると、ちょうどグッドタイミングになっていたので、部屋を出て階下におりて、雅子を車に運び込んだ。雅子を車に乗出るのが一仕事である。
 施設を出たのは、ほぼ予定通りの12時少し前だった。そこからは、雄琴駅(今はおごと温泉駅)近くのインターチェンジから湖西道路に入る。この道が西大津バイパスにつながっているので、時間的には、今までの自宅からに比べても15分ぐらい長く掛かる程度で、以前とそれほど変わらない。いつもの通り、山科から五条通に出て、河原町通りを通って京都駅に向かう。幸い順調に走り、1時過ぎには病院に到着した。少し早かったが、受付に行くと、直ぐにMRIの撮影が可能だと言う。早いに越したことはないので、予約時間より1時間近く早かったが、直ぐに撮影をして貰らった。そのため、2時半の診察までには少し待つことになった。
 診察では、撮りたてのMRIのフィルム写真をみながら、春日医師は「やはり、左右の差が大きく出ていますね」と写真の部分を指差しながら説明してくれた。しかし、今後どうなるかについての説明はなかった。新しいお薬が出たのでそれを試してみたいという話があった。何でも挑戦してみるのが、今の一考の考え方なので、お薬が一種類増えることになるが、その提案を受けた。いずれにしても、治療に関しては、先生の知見と判断に任せるしかない。
 なお、この日から、お薬は、看護士さんからの要求で一包化して貰うことにした。介護士さんが服用させやすいように、一回分の全てのお薬を纏めて包んでもらうのである。
 全ての段取りを終えて施設に戻ったのは、5時半を過ぎていた。従って、夕食は直ぐに始まった。二人には、多忙で疲れた一日だった。(以下、明日に続く) 

タグ : 繁和産業 東邦化学 東レ・ダウコーニング

454 八十島かけて 漕ぎ出でぬと

 今から二十数年前、筆者が大阪勤務時代に、共に仕事をした仲間の一人が東京転勤になるというので、昨夜、OB連中が大阪に集まって壮行会を行なった。遠路、愛媛や名張からも駆けつけたOBもいて、今まで行なわれたOB会以上の盛り上がりとなった。まさに、彼女の良き人柄の証である。
 彼女は昭和53年に入社、それ以降、30年間に渡って大阪で地道に頑張って来ていた。清楚で、真面目で、落ち着きがあって、その上スタイルも良く、美形で、好感度抜群の女性である。それだけに、筆者をはじめとして、多くの男性の憧れの的だった。久し振りにお会いしたが、そのイメージはそのまま健在で、ほのぼのするものを感じて嬉しかった。
 連想ゲームではないが、彼女の名前を耳にすると、何故か筆者の頭に浮かぶ短歌があった。 百人一首の中の11番目の参議篁(さんぎたかむら)(802〜852) のものである。
   わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海女の釣舟 
 筆者の連想は、彼女の名前の一部が組み込まれているからという単純なもので、全く他意はなかったのだが、今度の東京転勤という話しを重ねると、偶然であるにせよ、何か特別な意味をもっている様にも思えるから不思議だ。しかし、敢えて、次のように解釈することで、無難に話の辻褄を合せられる。
 「人生は、常に挑戦することで味が出るものだ。今回の入社後30年を経ての東京勤務は、まさに貴重な挑戦の場を頂戴したもので、今まで以上に自分の力を発揮して頑張ってきますと、皆様にはお伝え下さい」
 つまり、新たな彼女の挑戦の意志表示と解釈すればいいのだ。味のある新たなページが彼女の人生史に付け加わることになるはずだ。折りしも、今朝の新聞は「ドル急落99円台」という活字が躍っている。東京は荒海の中心だ。遣り甲斐のある仕事が待っているはずである。
 改めて、「頑張れ! 八十原弘江さん」 と申し上げる次第である

2.昨日の雅子(70)
 穏やかな天候だったので、車椅子で屋上に連れてもらって、久し振りに琵琶湖を眺め、その雄大さを堪能したという。総じて、平穏な一日だったようだ。

3.連載(419) 難病との闘い 第2部 小さな幸せを求めて(45)
  第二章 年末年始は自宅で (7)

(2)束の間のお正月(その3)
 夕方に太郎が帰るので、西大津駅まで送ってやった。折角、時間とお金をかけて、千葉から遠路帰郷したが、その滞在時間が僅か24時間そこそこでの帰宅で、単価が高くついた帰郷だった。明日行なわれる国立競技場でのラクビーを見たいというのだ。趣味で発散するのも健康の一つだから、それはそれでいいと一考には不満がなかった。いずれにしても、帰って来てくれたこと自体に意義があり、雅子も大いに感激していた。
 一般的には、娘なら、何をさて置いても優先的に帰って来てくれる傾向があると言われているが、息子の場合は、仕事との関係もあって、その辺りの対応が本質的に違う。次男の場合も、年末まで仕事があって、なかなか帰る時間が取り難いということだったので、無理をしなくてもいいと伝えて、今年は帰宅しないことになった。孫の顔を見られないので寂しいが、止むを得ない。それだけに、たとえ、24時間という短い滞在でも、自分の様子を窺いに帰って来てくれた太郎の帰宅は、雅子には、大変嬉しかったに違いない。気掛かりは、その太郎が未だに独り身でいることで、良縁に恵まれることに期待しているのだ。今年こそいい年であって欲しいと雅子は心底願っているのだ。
 折角帰って来た太郎だったが、雅子のことで手一杯だったことで、太郎のことまで面倒を見てやる余裕はなかった。従って、駅まで送って、ほっとしたというのも一考の正直な気持ちだった。
 その後は、好むと好まざるに関わらず、水入らずでの雅子との正月となった。雅子の症状を考えると、今後、このような形でのお正月を迎えられるかどうか、先行きについては分からない。とにかく、じっくりと味わったお正月にしたいと思うのだった。しかし、そうは言っても、普通の人たち同士のように会話は弾まない。一考が通訳をかねての一人しゃべりの時間にならざるを得なかった。つまり、雅子の言わんとしていることを確認しながらのおしゃべりするのである。じれったい会話ではあったが、そうすることで、一考自身も結構楽しんでいるとも言えた。
 幸い、この期間は、母親の食事は、姉達が用意してくれていたので、こちらが気を使うことはなかった。明日には、静岡にいる妹も帰って来て、数日間は面倒を見てくれることになっている。従って、その間は、毎日2回顔を出している久子も、ここに出て来ることもせず、一年間で貴重な数日間の休日を自宅で過ごすことになっている。(以下、明日に続く) 

タグ : 参議篁 ドル急落

359 いよいよ である

 「いよいよである。」今日はこの言葉で書き始めたかった。
 今の臨時国会は今週末が会期末となっている。給油新法案の扱いが注目されいて、会期を再延長してでも、衆議院での再可決を強行する方向で、福田総理は決断しているようだ。同氏にとっても、いよいよ勝負の舞台が始まる。しかし、これは、憲法で認められている訳だから、何も遠慮はいらない。堂々と決断して実行してもらいたい。
 さて、筆者が「いよいよである」と書きたかったのは、私的なことだが、この相坂一考と雅子にとって、「今日から新しい挑戦が始まる」ということである。このブログで連載中の「難病との闘い」の緊急予告となるのだが、予てから準備してきていた「介護付き有料老人ホームでの雅子の新しい生活が、「いよいよ今日から始まる」のである。
 果たして、二人にどんな舞台が待っているのか。大きな不安がいっぱいのスタートだが、新たな展開を期待してのスタートでもある。今、多少緊張を覚えながら、コンピューターのキーを叩いているが、指先からは新たなエネルギーが生まれてきているように感じられる。未来は誰にも分からないから面白い。
 この内容については、来年の初め頃から、、連載で詳しく取り上げることを予定している。  

連載(324) 難病との闘い
      第十一章 介護の実情2 平成19年夏から秋 (30)

(5)話題のDBS(脳深部治療)の可否(その7)
 「それと申しますのは」一考は、それらの視線を意識しながら、少し低くトーンを下げて話を続けた。一考の低音には独特の響きがある。
 「そのドギュメントでの説明で『バッテリーの定期的な交換が必要になる』ということが引っかかったのです。つまり、何年かに一度、定期的に頭に穴をあけるという手術を受けなければならない。頭を切り開いての手術を繰り返すと考えただけで、これは駄目だと思ったのです。ですから、雅子にこの手術を勧める考えは、その時点で消えていました」一考は、当時の自分の思考の中身を披露し、その時点でのこの治療への挑戦には関心がなかったと告白した。
 「ご主人のご判断は正しかったと思います。私の判断では、雅子さんの症状から見て、効果が出るとは思われません。若し、可能性があると判断していたら、私の方からこの手術による治療法をご紹介し、積極的にお勧めしたと思います」自信を持った力強い発言だった。一考は、この一言で、ここ数日間に渡って迷っていた心のもやもやが、一気に晴れたように感じていた。
 「そうですか、最初から、その可能性についても念頭に置いて頂いていたんですね。よく分かりました。先生のお話を伺って、気持ちがすっきりしました。ところで、参考に教えて頂きたいのですが、この手術の費用ですが、一体、どれくらい掛かるものなのでしょうか? 老人ホームへの入居権費用並みのものでしょうか?」脳の深部を切り裂く手術だ。並みの費用ではないだろうとの思いが、一考にはあって、それは、相当な高額な費用を必要とするであろうと考えていた。
 「いや、それほど掛かりませんよ。健康保険も効きますから。数百万円、せいぜい五百万円程度だと思いますよ」淡々とした口調で先生は教えてくれた。
 「そうなのですか。そんな程度なんですか。もっと高価につく手術だと思っていました。大変参考になりました」一考は意外な価格レベルに頷きながら、先生に軽く頭を下げた。
 帰りの車の中で、一考は何とも言えない安らぎに似たものを覚えていた。今朝まで、思い悩んでいたDBS手術の件は、これ以上考えることがなく、はっきりしたからであった。これで思い残すことなく、雅子を介護付き有料老人ホームに入れることを決断できるというすっきりした気分だった。
 来る時に渋滞していた道も、帰りは極めてスムーズで、心地よい流れの中で、一考は、快適にハンドルを握っていた。(以下、明日に続く)

タグ : 福田総理 給油新法案 DBS 介護付き有料老人ホーム

交流戦

 今年も交流戦が始まった。出だしからパ・リーグのチームが全部勝つと云う面白い結果だった。毎年、この交流戦がペナントレースに大きな転機を与えることが多いだけに、今年の展開も大いに期待したい。
 筆者も、昨夜は、楽しい交流戦に参加させてもらった。仕事仲間だったSさんのお祝いの会に、幹事のMさんから声を掛けてもらったのである。今年、初めての大阪出陣だった。参加者は、Hさん,Fさん、Mさん、もう一人のSさん、更には現役のSさんと多士済々で楽しいひと時を過ごさせてもらった。介護に明け暮れている筆者には、格別のオアシスとなった。
 和気藹々の楽しさに、時の経つのも忘れていた。気がつくと最終電車のタイミング、ラッキーと思ったのも束の間で、気がつくと、一駅乗り越していた。はっとして飛び降りたのだが、気がつくと、折角もらったSさんからの手土産を車内におき忘れ、駅員に回収を頼んでの帰宅となった。果たして、回収は出来るのか。気がつくと、深夜の田舎の駅には人の姿も見えず、タクシーの姿もない。昔を思い出して、歩いてのご帰還となった。幸い、雅子も元気に待っていてくれてほっと。 
 終盤に乱れはあったものの、大変楽しい交流戦でした。皆様お疲れさまでした。今後とも宜しく。

連載(123) 難病との闘い 第五章 衝撃の症状悪化(12)

 ここで、一考が書き上げた作品「執念」のその後の動きについて少し触れておきたい。
 会社生活での体験をヒントに連続殺人事件に仕上げたフィクション版「執念」とそのノンフィクション版「執念のプロジェクト」を三つのコンテストに応募していた。
 一つは、厚かましく、かつ分不相応だったが、念願の「松本清張賞」への応募である。2004年秋の韓国ツアーから帰国した直後だった。いつも郵便局に持って行くのだが、対応してくれる方が宛先を見てどう感じているかと思うと、何となく照れ臭い。「このおっさん、こんなのを書いたって、無駄骨なのに」と思っているのではと思うと恥ずかしくなる。この時は雅子と一緒だったので、彼女に手続きを代行させた、この時点では、雅子は、まだ手が使える状況だった。何とか予選に通って欲しいと祈っての応募だったが、その願いが叶えられることはなかった。
 二つ目は、2005年秋に応募した「日経小説大賞」だった。日本経済新聞社が創刊130周年を記念して設営した新しいコンテストだった。発表予定は2006年の10月頃とされている。しかし、これもリフォームを始める頃になっても、何の音沙汰もない。多分、没だったのだろうと諦めるのだった。
 そんなことを想定して、数ヶ月前に、某出版社のコンテストに、フィクションと「ノンフィクション」の作品を同時に応募した。三番目の応募で、この作品の最後の戦いの場となった。応募時点では、おこがましくも、若しかして、先の日経大賞とこの出版社賞の両方にパスしたら大変なことになるといった馬鹿げた心配が頭を掠めたが、それは、全くの杞憂だった。
 しかし、この出版社のコンテストの方は、幸い、両方とも一次審査を通過の連絡を受けた。四月の初めのことで、その一週間後には、フィクションの「執念}方が二次審査パスの連絡があった。前回の作品の「なんたるちあ」も二次はパスしていたので、同じレベルまで行ったことにほっとしていた。しかし、結果は、入選はならず、「出版推薦作」に留まった。
 三つの応募の結果を総括し、まあ、そんなものだろう。世の中、そんなに甘くないと自分に言い聞かせながらも、この作品に掛けてきた気持ちを思うと、このまま日の目を見ないことになるのがやるせなかった。かくなる上は、最後の手段、自らが投資をしての出版に訴えるしかない。一考は、その決断に向けて思案し始めていた。(以下、明日に続く)

タグ : 交流戦 執念

インターネットオタク

 将棋界でインターネットで対局する新棋戦が、昨日夜に、郷田真隆九段と島朗九段の対局で開幕した。大和証券の主催で、毎日曜日の8時から中継される。緊迫感があってなかなか面白い対局だった。ファンの郷田真隆九段が快勝、間もなく始まる名人戦挑戦に幸先良い勝星となった。
 インターネットにはいろんな中継があって、大いに活用させてもらっている。将棋中継のほか、ゴルフや野球のスコア速報、それに、昼間は日本の株式取引、夜は、米国のダウの動きなど楽しみは尽きない。最近では、ほぼ一日中楽しんでいることが多い。
 筆者の一日の事例を紹介すると、介護などの朝の仕事が一段落すると、まず、このブログの更新、それが終わる頃から、株式の動きを追い、場合によっては取引を行なう。緊迫感のある時間帯である。株式は3時まで続く、この間、将棋中継があれば、それをチェックしながら、昼食、買い物などの雑用を済ませる。夜も、朝から始まっている将棋のフォロー、夜中には、米国でのゴルフ、野球、株式の動きなどを追っていると、ほぼ24時間インターネットで楽しんでいることになる。但し、妻を病院に連れて行く日は、ブログの更新などは時間を変更して間に合わせている。まさに、インターネットオタクのようで、モバイルによるユビキタスが可能となればと思う今日この頃である。

連載(72) 難病との闘い 第四章 手探りの二人三脚(5)

 博多から戻った後、一考が最初に取り組んだ課題は、車の運転に慣れることだった。買い物をはじめ、母を病院に連れて行ったり、ちょっとした外出には車は不可欠だった。三十数年前に免許を取得したが、生まれつき不器用な上に、運動神経が鈍かったこともあって、大変苦労しての取得だった。また、取得後は、ほとんど運転する機会がないまま、いわゆる典型的なペーパードラバーで過ごした。例外的に、海外出張時に、止むを得ず、ハンドルを握ったことはあったが、国内ではほとんど運転実績がなく、つい先日、雅子がS字カーブで梃子摺った際に、急遽運転の練習で少し走っただけで現在に至っていた。それというのも、結婚後に取得した妻の運転が思っていたよりもうまく、しっかりした技能を備えていたことからも、助手席でのんびりとエンジョイするのが常態化していた。
 そんな訳で、雅子を助手席に乗せての泥縄式の特訓を敢行し、一日も早い交代を目指した。この間、雅子の運転も止むを得ず継続せざるを得なかったが、やはり、手の動きが今まで通りには行かず、引っ掛けたりして、車に傷をつけることも起きていて、一日も早い交代が必要だった。
 一考が正式に運転を担当するようになったのは1月15日からだった。その数日後のことである。
「何だかとても寂しいわ」
 近くのスーパーに買い物に行く途中、雅子が助手席から、か細い声で話しかけて来た。
「そりゃそうだろうね。何と言おうと、三十年近く握ってきたハンドルだからね。いわば、恋人以上の相手と別れたようなものだから。転ばぬ先の杖だ。そのうちに、助手席の快適さが楽しめるようになるよ」
 一考は雅子の気持ちが痛いほど理解できた。行動派であっただけに、自分ではまだ充分に出来ると思っているのを、いわば、強引に恋人との間を裂いたようなもので、急に、助手席での楽しみを新たな恋人にせよと言っても、ピンとは来ないのも理解できた。
「貴方の運転って、随分と慎重なのね。私とは随分違うみたい。快適さはまだまだ先のようね」
「のろのろ運転ってことかい? 仕方がないよ、初心者が、VIP様をお乗せしているものですから」
 一考は、珍しく皮肉っぽい言い方をする雅子に、軽くジャブを放った。
「VIP様ですか」
 雅子は苦笑しながら呟いたが、その顔は曇ったままだった。煙草好きの人に、あなたの健康のために、今日から吸ってはいけませんと云われたような辛さがあるのではと、一考は雅子の気の毒さを忖度するのだった。(以下、明日に続く)

タグ : ユビキタス 郷田真隆 島朗

長寿番組

 今日から四月、新年度が始まった。テレビ視聴が軸となっている今の生活リズムの微調整が始まる時期でもある。番組の改編やキャスターやレギュラー担当者、コメンテーターなどの入れ替えがあって、自分の好みにあわせての視聴番組の新たな選択が必要となる。
 交代、入れ替えなどの変化は歓迎だ。新しい展開、興味が期待できるからである。夢とか将来への期待なくして、我々の生活が活性化されることはない。そういう意味では、何かを期待しての新しいシーズンが始まったのである。気分を一新して自分達もその生活に活を入れてゆきたい。
 その一方で、長寿番組は堂々とその回数を重ねている。三分クッキング皇室アルバム笑点などはその代表例だ。それらは、それなりに味があるとか、国民生活の中に溶け込んでしまっていて、今更新たな変化を必要としていないからだろう。世代を超えて、何千回も続いている番組は、いまや貴重な文化遺産とも言うべきで、敬意を表したい気持ちである。
 今、筆者は障害者の妻を抱えての介護生活を続けている。障害の内容からみて、この生活スタイルは、今後、永遠に続くことになろう。自分の人生では、貴重な「長寿番組」に相当するものであり、しっかりとその継続を図って行かねばならない。余談だが、今、連載中の「難病との闘い」は、これからが本番であり、今のところ、最終回が何時になるか、筆者も把握していない。少しでも多くの読者にお付き合い願えれば、それ以上の幸いなことはない。

連載(71) 難病との闘い 第四章 手探りの二人三脚(4)

 大津の実家に戻ると、一考たちには、新しい人生が始まっていた。年末の慌しい引越しだったため、暫くは引越し荷物に埋もれての落ち着かなかったが、母親を交えた夫婦三人の生活には、新鮮さはなかったものの、今まで凍結していた家庭の温かさや、心を和ます安らぎがあった。
 心配だった雅子の左手の症状は、見た目にはそれほど目立たなかったが、傍で一緒に生活してみると、日常生活のあらゆる面で、大変な厄介さであることを知ることになった。それは、両手が不自由なく使えている人間には、直ぐには理解し難い厄介さで、料理、掃除、衣服の着脱など、ほとんどの日常生活での作業が、無意識に左手のサポートを不可欠としていたからである。
 例えば、料理の場合では、食材の皮を剥いたり、細かく切ったり、巻いたりする単純なことも片手では簡単ではない。また、各種調味料などのパックの蓋を開けるようなことでも、一筋縄では思うようには運ばない。特に最近のパックはしっかりとくっついていることが多く、封を切ることだって大変で、その殆どの作業が容易でないことが分かる。中には、両手が使える一考さえも結構大変な作業となるものも幾つかあった。
 衣服の着脱も料理以上に厄介だった。ボタンを掛けたり、外したり、ファスナーの上下移動やアイロン掛けも片方の手で押さえていないとうまく運ばない。また、それまで雅子が得意としていた裁縫に至っては、針に糸を通すことが出来ず、全く出来なくなったと云ってよい。これらの作業に、この頃の雅子は、まだ左手も親指が少し動かせたこともあって、何とか自分でやろうとして、自分からは手伝ってとは云わなかったが、妻が苦労しているのを見つける度に、思わず手を貸す形でのアシストとなった。
 特に、一考が梃子摺ったのは、アクセサリーの着脱だった。もともと小物である上に、一見、気づかないような巧妙な着脱の仕掛けが施されているだけに、左手が不自由な状態ではとても一人では操作出来ず、一考のサポートは不可欠だった。しかしながら、生憎、一考は、この年になっても、女性のアクセサリーには不案内で、その種の仕組みを全く承知していなかったこともあって、雅子からの説明に従って、何とか応接したものの、その作業に思わぬ悪戦苦闘するのだった。
 掃除、洗濯もスイッチを押す程度は無難だが、物を運んだり、広げたり、干したりする作業も容易ではなかった。
 かくして、帰郷早々にして、一考は、予期以上の雅子の支障に心を痛めると同時に、この病気が進行性の病気であるだけに、先行きの不安を募らせると同時に、自分の役割の益々の重要さを自覚した。(以下、明日へ続く)


タグ : 長寿番組 皇室アルバム 笑点 三分クッキング

ふるさとの暖かさ

 今朝は、拙書「執念」の話である。
 一昨日の夕方、近所のAさん宅に所用で伺った際に、厚かましいことだと思ったが、自分が出版した本のことを話した。有難いことに、Aさんは好意的に受け取って頂き、直ぐに町内会の会長さんに「町内回覧の可能性を検討してもらおう」との望外のご提案を頂戴した。そして、昨日、Aさんが訪ねて来られ、会長さんの了解が出て、直ぐに回覧でPR頂けるというのである。
 即断、即決、即行動という、今の世の中では、とても考えられないスピーディな展開で、私には、このところあまりお目にかかっていない幸せを独り占めしたような嬉しい一日となりました。
 最初に話を聞いて頂いたAさんの発想、アクション、それを受けての会長さんのジャッジが直線的に結ばれて、この上ない朗報となったのです。同じ町内であるにせよ、身に余る温かいご配慮に預かり、感謝でいっぱいです。
 何しろ、三年前に帰郷するまで、大学を出て以来、この町内で生活したのは、大阪勤務時代の5年間だけで、ご近所の皆様とは疎遠であっただけに、改めてふるさとの暖かさを実感させていただきました。感謝、感謝であります。
 会長さんは、随分、進んでおられる方で、もう1年数ヶ月前からブログを開設しておられます。(http://blog.goo.ne.jp/steelpony_2005) 早速、そのブログに「執念」のことも書いて頂きました。有難いお話で、大変嬉しい一日でした。Aさんと会長さんには、改めて、厚く御礼を申し上げます。町内の皆様には、少しでも多くの方に関心を持って頂けたら、この上ない幸せです。宜しく、お願いいたします。

連載(35)難病との闘い 第二章 病名との出会い(26)

 昼過ぎに、雅子は東京にいる一考に電話して、MRIの検査結果の第一報を伝えた。
「とにかく、脳梗塞ではなかったんだね。それはよかった」そう言う一考の声には、ほっとしたものが感じられた。何しろ、脳梗塞と云う恐ろしい病気ではないと分かったからだった。
「でも、パーキンソン病かパーキンソン症候群の可能性があるのよ」雅子の声は冴えない。
「それなんだがね。この間、インターネットで調べた限りでは、結構、厄介な病気のようだけど、個人差があるようだから、神様も、君にはそんなに厳しく苛めたりはしないんじゃない。先生も言っている通り、何でもない可能性もあるんだから」
「私も、そうあって欲しいと願っているの」訴えるような雅子の声に、一考も込み上げる切なさを感じる。
「今のところは、左手の人差し指が使い難いだけなんだろう。まあ、そのお薬を飲んで、心臓検査(RI検査)の結果を待とうよ。ばたばたしても始まらないからね」一考は、内心とは別に明るく繕って雅子の気持ちを気楽にさせようと気遣っての発言だった。あの、モハメッドアリの手の震えの話は、自分の頭の中に仕舞いこんでいた。なるだけ、余計な心配をさせないためだ。
「そうね。何だか、このところ、判決を待っている被告のような気持ちで毎日を過ごしているのよ。精神的に辛いわ」話しているうちに、雅子も弱気になって来ているようだった。
「被告の気持ちって大げさじゃない? 気楽に行こうよ。仮に、有罪の判決が出たって、そのお薬がマッチして、病気の進行が止まってくれたらいいんだから」あくまでも、楽観的に装って、雅子を落ち着かせようと努めた。
「そうあって欲しいわ。いずれにしても、大変気が重いの。あなたと違って、私は張本人ですから。あなたにも、余計な迷惑を掛けるのも嫌だし」当事者の気持ちは、痛いほど分かるだけに、一考も辛い。
「そんなことを、今から心配しても始まらない。なるようになるだけだから、運を天に任せて待つことにしよう」あくまでも、気を紛らわせようと一考も一生懸命だった。
「簡単に言うけど、そんな気持ちになれないの」病院から帰って来た直後だけに、雅子の気持ちには不安定さが目立つ。
「今からそれじゃ持たないよ。そうなったら、そうなったで、僕が何とかするから、心配はいらない」一考は力強くそう言って、電話を切った。雅子のことを慮って、言葉を選んで話したせいか、一考も少し疲れたようで、重い気持ちになっていた。(以下、明日に続く)
 

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拙著「執念」への反響

 昨日、入社して最初の上司だった方からお手紙を頂戴しました。先に、お送りしていた「執念」(文芸社刊)の読後感を綴ったもので、ありがたく、嬉しく読ませて頂きました。今日まで、この種のお手紙、メールで、或いは年賀状で多くの方から、過分のお言葉を頂戴しており、筆者として、これに勝る嬉しいものはありません。
 中でも、ある親しい先輩からは、本をお送りして数日後に分厚いお手紙を頂き、思いっきり褒めて頂いたのには、思わず熱いものが込み上げてきました。また、ある方からは、「一晩で読み切ったよ」との嬉しいメールを受信、まさに作者冥利でした。もちろん、リップサービスも多々あると思いますが、総じて、「こんな才能を持っていたのかい」とか親父を知っている方からは「お父さんの才能を引き継いでおられるのですね」などのお褒めの言葉、或いは「ストーリーそのものも結構いけてるよ」などもあり、加えて「次作を待っている」という嬉しい励ましもあって、大いに勇気付けられました。この場をお借りしてお礼を申し上げます。
 さて、今日から「難病との闘い」と題して妻の病気との出会いから今日までを書いてみたいと思います。ご愛読いただければ幸いです。

 第一章 長男の嫁
 (1)
 それは、大したことのない左手のかすかな異常から始まっていた。妻、雅子の記憶では、その指の異常を覚えたのは、父の百日忌を終えた頃だったという。親父が97歳で他界したのは、二十一世紀を目前にした2000年11月4日だったから、それから百日後となると、具体的には2001年2月半ば頃だったと推定される。今からおよそ六年前のことだ。しかし、その時点では、日常生活に支障をきたすこともなかったので、夫にも報告せず、それほど気にすることなく、残された母の面倒を看る新たな生活を始めていた。
 夫の相坂一考は、ちょうど六十歳になった直後で、通常なら定年退職するはずだったが、幸い(?)退職を一年延長してもらったことで、引き続き単身赴任生活を継続しながら、最後の会社生活をエンジョイしていた。今から思うと皮肉なことなのだが、雅子が指の異常を感じていたと思われる頃は、仲間から還暦祝いを受けて、赤いちゃんちゃんこを着せてもらったりして、気分良く陽気に皆とはしゃいでいたと思われる。 (以下明日へ続く)
  

年金繰り下げ中止

 今日付けで防衛庁が防衛省に昇格した。世界の中の日本国として、相応しい組織に組み変えた訳であり、これで新たなスタートの基盤が整ったと見ることが出来る。
 それに対して、基盤がはっきりしないのが社会保険庁が扱っている年金制度である。先行き不透明なのが何と言っても気がかりだ。実は、昨年65歳になった時点で、繰り下げ制度の適用を受けることにした。これは、年に60万円を繰り下げ(貰わずに預けた形にする)、5年間継続すると、70歳以降は、今の支給額のおよそ1,8倍となり、その額が死ぬまで続くという制度である。生涯の受取額と云う観点からみると、75歳以上生き延びれば、トータル受取額がプラスとなり、それ以上生ば生きるほどそのプラス額は増大する仕組みである。昨年の時点では、確かに魅力があると思って、その繰り下げ制度に加入した。
 しかしである。自分が果たして75歳以上生きられるどろうか、ここに来て自信がなくなったこと、更には、今の社会保険庁の脆弱さをみると、この制度が10年以上先まで本当に担保されるのか、何の保証も無い。新たな改革案が出て来て「それまでの制度がらがらぽん」とされれば全てがパーとなる。現に、今議論されている改革案では、消費税で賄うと言う考え方が主流になりつつある。若しそうなれば、今まで払い込みが完了している我々が、改めて支払うと言うことになり、二重払いを余儀なくされる。
 ことほど左様に先行き不透明である以上、十年先のプラスを期待するのは、まさに砂上の楼閣といえそうだ。そんなことから、今日、社会保険庁に出向いて、繰り下げ中止を申請した次第である。


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