プロフィール

Author:相坂一考
滋賀県大津市出身
07年1月に推理小説「執念」を文芸社から出版

このブログは3部康成です。1部が「コラム」、2部が連載「難病との闘い」、そして3部が、速報、「昨日の雅子」です。

 

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

FC2カウンター

ブロとも申請フォーム

ブログ内検索

RSSフィード

Powered By FC2ブログ

593 異能の男の勝負の仕方

 3000本安打は、単なる通過点だと見ていたので、そんなに大きく取り上げることもなかろうと思っていたが、当のイチロー選手は、意外にも気合が入っていたのにびっくりさせられた。「第一球目から勝負するつもりで狙っていました。ホームランでなかったのが残念」とインタービューに明るく、多弁に答えていたのが気持ち良かった。一本、一本の積み重ねで築いた作品で、たゆまぬ汗と努力の結晶だ。 
 1995年の春に「3000安打を打つのはおまえだ。最終的には抜いてもらいたい」と大先輩の張本選手から託されたのを思い出すという。今朝の日経は「挑戦は終わらない」として、8年連続200安打、メジャー2000安打、そして、過去二人の4000安打があると、目標を羅列し、「すごく遠いけど見えないことはない」と話すイチローの言葉を伝えている。異能の天才の今後の勝負の行方に、国民の関心は高まるばかりだ。
 さて、島田紳介がプロデュースしているアラジンというグループの新曲「陽は、また昇る」が、今日発売されるらしい。発売前から、テレビ番組の「ヘキサゴン」での前宣伝の効果も大きく、大ヒットの予感をさせている。明るく、元気が出る歌で、サラリーマンの応援歌だという。
 それにしても、この異能の男、島田紳介の能力には思わず惹きつけられてしまう。話術の巧みさを武器に、番組を作る能力、そしてスターを生み出し、作品を作り出す多彩な能力は、実に大したもので、その底なしの能力の深さに感心するばかりだ。芸能界だけでなく、ビジネスの世界でも成功しているというから驚きだ。「好事魔多し」というから、変なことで転ばぬように願いたい。
 昨日の午前中の関西テレビの番組で「中条きよし」の挫折から栄光の座への苦労を取り上げていた。面白かったのは、彼の出世の切っ掛けとなった「全日本歌謡選手権」という番組で、10週抜きの栄冠を物にするのだが、その勝負処の7週目で、思い切って審査員であった淡谷のり子の持ち歌「別れのブルース」で勝負に出たという。そこには、その曲を作った服部良一さんも同席していて、お二人から絶賛の言葉を得たという。淡谷さんは「私よりお上手」といい、服部良一さんは「感無量です」とコメントしたという。真っ向勝負する男の生き様に少し感動した。
 そんな中で、福田総理もいよいよ内閣改造の勝負に踏み切るようだ。一見煮え切らないように見える掴みどころの難しい総理だが、どんな異能ぶりを見せてくれるのか、大いに注目して見守りたい。

2.連載(558) 難病との闘い 第2部 小さな幸せを求めて(186)
  第五章 施設生活半年を終えての総括(24)

(4)小さな幸せの事例(その2)
B. 優しさ、親切、好意
 施設でお世話になっていて感じることは、ご担当頂だいている介護士さん、看護師さんたちの優しさで、大変有難いことだと思っている。介護と云う大変苛酷なお仕事だが、皆さん、嫌な顔も見せずに一生懸命尽くしてくださる。人事異動があってちょっぴり寂しい思いをすることもあるが、新しい方も含めて一貫した優しさ、真面目さ、忠実さがあってその有難さに感謝している毎日である。時として、雅子が体調のバランスを乱して、介護士さんに余計な迷惑を掛けることも多くあるが、苦情もなく、適切に処理頂いていることには、頭が下がる思いである。こんな時には、小さな幸せと云うよりも大きな幸せを実感するのである。
 今でも記憶に生々しく刻まれている幸せを覚えたシーンがある。それは或る時の通院時での駐車場で受けた優しいサポートの有難さでだった。診察を終えて駐車場に戻り、雅子を車に乗せようとした時だった。一考の車の隣に、別の車がぴったりと止められていて、作業がいつものように出来ず、大苦戦となったのである。
 困り果てて、通り掛かった方の車を止めて、助けをお願いしたのだが、快く応じて頂いたその時の優しい手助けに、「小さな」ではなく、「大きな幸せ」を覚えたのである。馬鹿げた話だが、駐車場には、一般車の駐車場と車椅子の専用駐車位置があるのを知らないという基礎知識の欠如が失敗の原因だった。お陰で、今では無難にマネージできている。
 さて、障害者を抱える立場になった一考が思うことは、皆様が大変親切で優しいことだ。施設に入る前からも、多くの温かい気遣いを頂いたことが心に残っている。たとえば、電車で通院していた時の気遣いもそうだったし、最近でも、車椅子で道を進んでいる時にも、周りの方の優しさ、温かい心遣いが溢れていて、うれしい限りである。日本も、まだまだ棄てたものではないと前にも書いたが、今でもその気持ちに変わりない。(以下、明日に続く)

3.速報、昨日の雅子(204) 7月30日分
 この日は、何故か今一つ元気がなかった。この日から、朗読は村山由佳の新作、『おいしいコーヒーの入れ方、第2部、2巻、「明日の約束」』を開始した。相変わらず、年上の女性、元教え子の恋愛小説だ。

482 井上怜奈

 昨夜のNHK「クローズアップ現代」で「がんに負けない、怖がらない」の放映があった。その中でアメリカの国籍を取ったフィギュアスケートの井上怜奈さんを取り上げていた。怪我や故障に打ち勝ったばかりでなく、肺がん、頭蓋骨骨折、その後の後遺症でストレス(PTSD)と闘い、それらの全ての壁をに打ち勝ってのオリンピック出場を果たす。そして、パートナーのボルドウインさんの競技が終わった後のリンク上でのプロポーズを受けて結婚したという。
 彼女の半生は、まさに、これ以上ないような艱難辛苦を乗り越えたもので、工夫を凝らしたドラマティックな小説も遥かに及ばない闘いの連続に、見事に打ち勝った劇的なものだった。その素晴らしさには、筆者は大いに感動し、思わずその画面に見入っていた。
 彼女が、教えてくれた「負けない、怖がらない」の気持ちで取り組んでいけば、越えられない壁はないという意味で大いに勇気付けられた。筆者も、厄介な難病と闘う雅子を勇気付け、壁を乗り越えるように頑張りたいと改めて誓った次第である。
 なお、話題はそれるが、このクローズアップ現代のキャスターを務めている国谷裕子さんの魅力は抜群だ。その能力、流暢な英語、知的な器量など、他のキャスターの追随を許さない素晴らしさがある。ファンとして、彼女の履歴を調べたが、49歳でアメリカの大学の卒業である以外に、情報がないのが気になる。

2.昨日の雅子(98)
 特に変わったことはなし。通じもあって順調。但し、言葉探しで少しとらぶった。最初が「え」次が「ふ」、その次が「ろ」と来て4文字で、上半身にあるという。なかなか分からなかった。答えは明日に。

3.連載(447) 難病との闘い 第2部 小さな幸せを求めて(74)
  第三章 施設に戻って (20)

(3)一日の過ごし方(その3)
 一考は、昼食が始まる時間が近づくと、介護士さんたちに「宜しく」とお願いをして、一旦このドリームスペースを引き上げる。
 雅子の昼食は、やはり1時間近く掛かって済ませる。介護して下さる介護士さんには感謝、感謝だ。その後は、朝食後の場合と同じように、お薬の服用、歯磨き、口ゆすぎ、そしてトイレの順での介護を受ける。この辺りの段取りは、ベルトコンベアーに乗ったような感じで進められる。雅子も、要領を得ていて、そのリズムに乗った形でそれに応じているようだ。
 一考が2回目の顔を出すのは、入浴のない日は、昼食関連の一連の段取りが終わったタイミングで、1時半から2時に掛けてである。火曜日と金曜日は昼食後に入浴をさせてもらうので、それが終わって部屋に戻って来るのが2時頃になっているので、一考もそれに合わせたタイミングで顔を出すようにしている。入浴はメインとサブの二人の介護士さんで対応してもらっている。
 一考が顔を出すと、大抵の場合は、雅子は椅子に座ってのんびりとテレビを見ているが、入浴した日は、ベッドに横に寝かせてもらっていることが多い。やはり、入浴で多少疲れるからである。二人の会話は、「何か、変わったことはないか」という一考のいつもの挨拶から始まるが、殆どの場合「何もない」と雅子が首を横に振って答えるパターンである。それを確認して、とりあえず、一考は「自分でインスタントコーヒーを入れ、それを飲んで一息つくのだ。そして、暫く、雅子の傍で一緒にテレビを眺めている。何となくほっとする時間帯だ。雅子がベッドで横になっている場合は、一考の顔を見ると、早く起こして欲しいとせがむことが多いが、なるべく長く横になっている方が疲れなくていいと思って、暫くそのまま寝かせて置くことが多い。雅子は、その間、しきりに早く起こしてと不満を訴える。その辺りのタイミングで、介護士さんが、ファイバー食品をとろみで混ぜてもって来てくれるので、一考が飲ませてやる。
 やがて、3時のおやつの時間になるので、予め、一考が持ち込んだものや姉達が見舞い時に持って来てくれたものを出して食べさせてあげる。大抵は、プリン、果物、アイスクリームのいずれかである。そして、それが終わると、何か飲み物となるが、これも大抵はお茶か、ジュース、ヤクルトといったものが主流だが、このところはジュース、ヤクルトがが多い。ピーナッツやチョコボールなどの硬いものは禁物だ。飲み込めなくて、後で口に手を入れて取り出さねばならないからだ。(以下、明日に続く)

タグ : 井上怜奈 国谷裕子

470 卒業 竹村健一

 ちょうどこの時期は卒業式の季節でもあり、人事異動の時期である。先日の14日に、敬宮愛子さんも学習院幼稚園を卒業して、4月からは学習院の初等科に進まれる。また。あのジャイアンツの桑田真澄投手もメジャーから戦力外を通告を受けて、爽やかに現役引退を表明した。卒業、引退といった別れ、旅立ちが相告ぐ季節だ。
 テレビの世界でも、コメンテーターの竹村健一氏が、今朝の出演を最後に「報道2001」から卒業するということで、特番が目下放映中だ。同氏は、1979年からフジテレビ系列の報道番組「世相を斬る」の初回からの出演で、以来、ほぼ30年間、独特な個性、話法で存在感を示してきた。筆者も同氏の「だいたいはね!」{モーレツ」「ビューティフル」とか「マクルーハンの世界」といった言葉が強く印象に残っている。まだ、年齢的には80歳には達しておられない若さだが、さすがに言葉がスムーズに出なくなって来ていて、タイミングのいい卒業だと思う。人間引き際、散り方が大事だが、さすがにそのことをよく弁えた人だといえよう。長い間、ご苦労さんでしたと申し上げたい。
 散り方といえば、昨日の高校野球での北大津高校は健闘空しく爽やかに散った。頂上を狙うにはまだ早過ぎたのだろう。夏に期待したい。

2.昨日の雅子(86)
 穏やかな一日。ここでも人事異動の話があって、ついこの間、2Fから移ってこられたばかりの介護士さんが、4月からまた移動される。雅子もちょっぴり寂しそうだった。

3.連載(435) 難病との闘い 第2部 小さな幸せを求めて(62)
  第三章 施設に戻って (8)

(1)定着への頑張り(その8)
 一人の人間のある側面の変化を追跡することで、そこに投影された結果を通して、対象者の人生の歴史の一側面を捉えることが出来る。雅子の美容院通いのここ数年の変遷の歴史も、まさにその一つであって、雅子の難病の闘いにおける症状の悪化の進捗状況をしっかりと捉えている。
 具体的に、この3年余りの雅子の美容院通いの実情を振り返ってみよう。一考が、雅子の異常を知って急遽帰郷したのは2004年12月末だっただが、その頃の雅子は、自分で車を運転して美容院に通っていた。その美容院は、車で10分程度の距離にあるJR唐崎駅近くのビルの2階にあった。
 しかし、2005年2月からは、これ以上の雅子の運転は危険だと判断し、車の運転は一考が取って代わった。従って、雅子も美容院へは一考の運転の送迎で通うことになった。そのやり方は、送って行ってから、一戸は一旦家に戻り、時間を見計らって迎えに行くという形を取った。ビルの2階への階段を上り下りは、暫くは何ら問題なく、雅子がひとりで行なっていた。
 それから一年少し過ぎた頃から、その階段の上り下りには、一考のサポートが必要になり始めた。そのサポートは、、最初は、手を繋ぐ程度の軽いサポートでよかったが、それから段々とエスカレートし、2006年後半には、次第に雅子の身体を抱えるようなサポートが必要になって行った。そして、2006年12月末がその階段の上り下りの最後となったのである。その時点では、しっかりと抱かかえながら階段を一段ずつ、ゆっくりと必死に上り下りしなければならなかった。今では、それも懐かしい介護の思い出でもある。
 かくして、2007年初めからは、車椅子で通えることが出来る近くのスーパーの店内にある美容院に替えたのである。その店には、この施設に入居するまでのほぼ一年間に8回通った。そして、この日の2008年1月16日、この館内のこのお店に、初めてお世話になることになったのである。
 以上が、この3年余りの雅子の美容院通いの小史である。そこに、雅子の厄介な病気の悪化の進行具合がリアルに投影されているのが分かる。それは、取りも直さず、一考の介護の変化の歴史でもある。
 特に、興味深く面白いのは、介護の困難さが、雅子の病気の悪化と、必ずしも正比例しているのではないことだ。つまり、唐崎駅近くのビルの2階にある美容院の階段を、必死に雅子を抱えて上り下りした最後の通いが、美容院通いの介護に関しては最も大変なMAXの状況であったのだが、それ以降は、車椅子を押したり、作業中の途中の洗髪時に、車椅子から専用椅子に座らせる程度の介護で済む訳で、そのMAX時に比べれば、随分と楽になっているのである。(以下、明日に続く)

タグ : 敬宮愛子 桑田真澄 竹村健一 北大津高校 世相を斬る 報道2001

411 グリーンスパン氏の履歴書

 日経の私の履歴書は、今月は、FRB議長を歴任した「アラン・グリーンスパン」氏で、読みごたえのある内容だった。現代史の隠されていた真実の披露、多くの共鳴を呼ぶ格調高い言葉がユーモアのに満ち満ちていて、大袈裟に言えば、毎日が感動だった。
 今日の最終回でも「文明を前進させるイノイベーションを事前に予測することは誰にも出来ない。しかし、常に必ず起きてきた。それは、人間の本性に根ざしているものだと思う」と言い切り、それを促す土壌が資本主義だという。このコンピューター時代の次は何が来るのか、筆者はそんな期待に思いを馳せた。
 同氏は「逆境に耐え、現実に適応して行く能力は人間に備わっている。だからこそ、人類は前に進んできた。この確信は揺らいでいない」と結んでいる。この言葉に、筆者も、大いに勇気付けられた思いだ。
 そんな高邁な思いから現実に戻ると、政界では、前夜につなぎ法案を提出するという、思い切ったスクイズ作戦に出た与党だったが、突如振り出した雨のような両院議長の斡旋で、戦いはサスペンディッドになってしまった。その一方で、中国食品の恐怖が今朝の紙面を覆っている。筆者も、慌てて冷蔵庫の中を点検、残っていた中国製の冷凍食品を廃棄することにした。一方、ハンドボールはなかなかのいい試合で、前夜の女子の完敗を補った形で、ファンを取り戻したようだ。
 相変わらず、何が起きるか分からない世の中である。

2.昨日の雅子(28)
 前夜は、久し振りによく睡眠が取れたようで、この日は体調もよく、落ち着いた一日だった。長く、椅子にすわっていると、お尻が痛くなるようなので、時々座る位置を変えてやった。食欲も堅調である。

3.連載(376) 難病との闘い 第2部 小さな幸せを求めて(2)

  第一章 入居生活の始まり (その2)
(1)新たな門出 (その2)
 自分の生活がどんな具合に取り扱ってもらえるのか、ドリームスペースとの契約が終わった直後には、雅子の頭の中では、漠然とした掴まえ所のない不安が広がっていた。今までは、住みなれた在宅での介護生活で、しかも、その介護者が気心の知れた夫であったことで、病気への不安はともかく、介護については、すっかり頼り切った形で、何とかこの二年間を過ごして来られた。
 それが、第三者の方々のサポートを頂戴しての生活に換わるのだ。最近では、言葉にも障害が出て来ていて、言いたいことがスムーズに伝えられない状況にあるだけにとても心細く、まさに見知らぬ世界に飛び込んで行くようで、何とも言えない不安が募って来ていた。
 しかし、そんな気持ちではいけないと、入居日が決まった頃から、それを断ち切るように、雅子は自ら決意し、意識改革を試みていた。介護に当たってくれる方々の暖かさを信じ、その方たちに身を委ねよう。そうすることで、皆さんからの貴重な愛情を頂戴することになり、新たな穏やかさを得られるのではないか。雅子は自分の心に、そう言い聞かせることで、それまで拡がっていた不安も心の隅に追いやっていたのである。そして、迎えたのが今日のスタートの日であった。
 この日も夫は、いつもの朝の定番メニューである、着替え、朝食、トイレ、洗顔などを、いつもよりは手早いペースで終えてくれた。そして、出発準備の段取りに取り掛かってくれたのは、9時過ぎだった。前夜までに、新居となるドリームスペースに持ち込むべきものを纏め、大小二つの旅行鞄と幾つかの紙袋に入れて、差し当たっての準備は終えてあった。夫は、先ずは、それらを車に運び込んだ。車が小さいので、数度に分けて運ばねばならないかと心配していたが、幸い、すんなりと全部が収まったようで、夫もほっとしているようだった。
 続いて、夫は、私の衣装変えに取り掛かってくれた。昨夜、希望を聞いてくれて準備しておいた衣装に着替えさせてくれるのである。何も、わざわざそんな別な衣装に着替えることをしなくてもという気持ちもあるが、自分の新しい旅立ちでもある。それなりに自分の気持ちを整えておきたいと思いでの着替えなのだ。この着替えも、身体が不自由だから結構手間が掛かる。夫は慣れた手つきでそれを終えると、今度は、外出前のいつもの手順で口紅を薄く塗ってくれた。これで、自分なりに気持ちの切り替えも出来て、旅立のセレモニーを終えた気分になっていた。(以下、明日に続く)

タグ : グリーンスパン つなぎ法案

316 石破茂

 明日、注目の守屋武昌氏への証人喚問が行なわれる。聞くところでは静止映像での放映だそうだ。国民から見れば「何たるちあ」である。今からでも遅くない、きちんとした映像での放映にしてもらいたい。
 ところで、筆者は、今の防衛大臣の石破茂氏のファンである。鳥取県出身の二世議員だ。
 筆者が惹かれるのは、同氏の理路整然とした明解な論理で、ディベートに強いところである。少し回りくどい面もない訳ではないが、今の政治家の中では数少ない正統派だ。
 小泉内閣の時に、自衛隊イラク派遣を巡って混乱した際、当時の中谷元防衛庁長官では野党の攻めに抗しきれず、急遽、代わりに起用され、見事に国会を乗り切った手腕は印象的だった。今回も守屋前防衛事務次官の問題で矢面に立っているが、しっかりと職責を全うして欲しい。今日も、朝からテレビ討論番組の梯子だ。その応接振りをじっくりと楽しみたい。筆者は、将来の総理候補として、密かに期待している一人である。

連載(281) 難病との闘い
      第十章 笑うに笑えないエピソード (23)

(10)大チョンボ (その4)
 何かの拍子で、一考は我に帰った。しかし、一考の頭の中は朦朧としていて、前後の経緯が全く飲み込めていなかった。辺りを見回すと、いつも、雅子がいるリビングだった。そして、自分は、雅子がいつも座っているマッサージチェアで眠っていたことに気づいた。ふと、その正面の壁にかけてある時計に目をやった。なんと、4時前を示していた。一瞬、我を疑った一考は、慌てて、もう一度周りを見回した。雅子がいない。寝室で寝ているのかと思って、よろけながら寝室に向かい、ドアを開けたが、ベッドはもぬけのからだった。慌てて、トイレに戻ってドアを開けた。一考は、そこに雅子の苦しそうな姿を見て暫し立ち尽くした。雅子が、身体を二つに折り曲げたような姿で、辛うじて便座に座っていたが、頭は、便器の下まで垂れ下がっていた。
「申し訳ない」一考はそう声をかけながら、雅子を抱きかかるようにして、頭を持ち上げながら、姿勢を戻そうとした。しかし、長い間、そんな不自然な姿勢でいたため、直ぐには戻らない。その時、自分が、雅子をトイレに運んで来て便座に座らせてやったことまでが思い出されたが、そのあとのことは全く記憶から欠落していた。
 二日酔いでふらふらする頭に自らに「活」を入れながら、車椅子を使ってベッドまで運んだのだが、雅子の様子は声も出せなくなるくらい体力を消耗し、一見、事故に会った重症の被害者のようだった。
 暫く、身体をマッサージしながら、その回復に努めた。その頃になると、自分が犯した大変な過失の全体像が把握できるようになっていた。とにかく、雅子のことを忘れて、爆睡してしまっていたのだ。それも、しっかり4時間もの長時間である。雅子にしてみれば、一考が外出している間の7時間に加えて、4時間も、不自然な姿勢でほって置かれたのだ。健康な人間でも大変なのに、自ら、身体を動かせない身で、11時間も放置されたのでは堪ったものではない。
 一考は命に別状がなくてよかったと思いながら、反省の小野井の中で、改めて眠りについた。もう外は明るくなり始めていた。(以下、明日に続く) 

タグ : 石破茂 中谷元 守屋武昌

野中広務

 筆者が現役を退く頃、よく野中広務さんに似ていると言われたことがある。当時は内閣官房長官だったと思うが、話題を集めていた人物だっただけに、そこそこの気持ちで受け取っていた。京都府の出身だけに親しみはあった。
 しかし、その後、橋本内閣が、日本歯科医師会からあの一億円献金を受けた件で、同席していた同氏らは徹底して、自分は知らないと白を切り通している。この事件が発覚して以来、筆者の同氏への不信感は増すばかりだ。今朝も、TBSの時事放談で、テロ特措法は延長することはないと論じていたが、そんなこ胡散臭い経歴を持つ人物が、偉そうなことを言っても説得性があるとは思えない。
 そもそも、時事放談は、半世紀前の1957年に始まった番組で、朝日新聞出身の細川隆元と日本経済新聞出身の小汀利得両氏の歯に衣着せぬ毒舌が評判を取ったが、1987年に一旦終了した。それが2004年4月にリメークされた歴史ある番組だけに、疑惑の人物をレギュラーに選んでいるTBSの見識を疑いたくなる。

連載(204) 難病との闘い
      第八章 二人の生い立ちから病気発症まで(13)

 それから間もなく、夫の仕事の関係で、住まいが千葉に移った。市原市にあった研究所と東京の営業を掛け持ちすることになったからだった。その頃から、夫が、よく仲間の方を家に連れて来ることが多くなった。時には、ふいに連れて来ることもあり、その応接に戸惑ったこともあった。しかし、そんなことの積み重ねで、あり合わせの食材で適当な持て成しの料理を作るコツを身に付けることが出来た。
 千葉に移って一年ほどした頃だった。関西地方に出張中の夫がどうやら列車事故に巻き込まれたのではとの心配な連絡が会社から入って来た。大阪―名古屋間の近鉄線で特急電車の衝突事故が起きていて、相当な死者が出ていた。連絡をくれた同僚の話では、時間的にみて、その事故を起こした電車に乗った可能性がありそうだという。思いも寄らない一報に不安で一杯になった。夫からは何の連絡もなく、夕食時になっても帰って来ていなかった。携帯電話もない時代で、頭の中では最悪の事態をも考えたりし、これからどう生きて行けばなどと不吉なことが頭に浮かんだりしていた。幸い、そんな心配をしているとは知らない夫は、何の予告もなくふらりと帰って来た。ドアを開けて夫の顔を見た時には思わず嬉しくて抱き絞めたのを覚えている。幸いにも、事故の直前の電車に乗っていたということだったが、夫婦という絆を改めて意識した瞬間だった。
 夫の父方の祖母が老衰で死亡したのは、その一年後のことだった。その時も、夫が関西方面に出張中で両親宅に宿泊していた。翌朝にその連絡を受けて、自分は子供を連れて急いで帰宅したことを昨日のように思い出す。夫の話では、夜中だったことで、山科で開業医をしている自分の兄に頼んで来てもらい、死亡確認をしてもらったと云う。近くの医者に頼めばいいものを、わざわざ山科の兄のところに頼む夫の考え方が好きではなかった。親戚という事で頼りにしてくれるのは悪い事ではないが、主治医でもないのに、そんな時だけ、自分の兄を煩わせるのが気になるのだった。
 慌しい生活が続く中で、幸い子供は順調に成長し、それまでの2DKでは狭くなり、住まいが横浜の日吉にある親会社の社宅に移った。近くにK大学の日吉校舎があり、環境に恵まれた処だった。住まいの広さが3DKと少し広くなったところで、間もなく次男の二郎が誕生した。女の子を期待していた自分には少し不満だったが、健康な子供の誕生に、小さな幸せを覚えていた。(以下、明日に続く) 

タグ : 野中広務 細川隆元 小浜利得 時事放談

阿久 悠

 5000曲の歌謡曲の歌詞を作詞したという阿久悠さんが亡くなった。70歳と言うまだ若い年齢での逝去は惜しみて余りある。最近では、カラオケで自分が好んで歌う曲の多くは、作詞は同氏のものが多い。
 最近では歌謡曲と呼んでいるが、筆者の学生時代の頃までは、流行歌といって、下品なものの代表で、そんなものに関心を持つことは、よくないと言う環境下で育てられた。一例として、長女が熱烈な美空ひばりのファンであったのだが、それを次女が馬鹿にしていたのが強く記憶に残っている。
 しかし、この年になって感じることは、歌謡曲が如何にうまく自分の人生を投影している媒体であるかということである。一つのヒット曲を耳にすることで、その当時の自分が思い出され、自分が何を考え、何に悩んでいたかが浮かんでくる。そして、多くの場合、その歌詞を口ずさむことも多い。
 歌謡曲の歌詞なんて、見方によっては、言葉を並べただけの大衆芸能に過ぎないという人もいるが、適切な言葉を的確にシャープに配置し、人の心を捉える技術は、磨かれた才能があって初めて実現する。阿久悠氏のあの外見から、多くの素晴らしい詩が生まれて来たことを思うと、才能と言うものに親しみを感ぜずにはいられない。同氏のご冥福をお祈りします。
 同じ日、安倍総理の取った赤城大臣の更迭という昨日のアクションは、そのタイミングなどから見て今一つインパクトを欠いているように映る。総理としての才能を充分に発揮されたものとは思えない。やることなすことが、このところ、叩かれる材料になっていることに、気の毒を通り越していて同情を申し上げる。頭の良いブレインはいないのか!!

連載(194) 難病との闘い
      第八章 二人の生い立ちから病気発症まで(3)

 幼少の頃から、一考は、阿久悠氏以上に見映えが今一つで、不器用で外見的に魅力に乏しい男だった。加えて、性格も内向的で、人見知りも結構強く、いつも家にこもって、一人でゲームを楽しむといった、今で云う「おたく」タイプの典型だった。また、異性に関しても、小、中学生の頃までは、女の子には関心はあったが、自ら動くといった行動に移すこともなく、いわば、晩生の少年として育っていた。
 小学生の高学年になってからの話だが、或る晩、一考が、眠ろうとしてうつらうつらしている時に、隣の部屋から漏れて来た両親のひそひそ会話の一節が、今でも記憶の隅に鮮明に残っている。具体的には「一考は、女の子にはもてそうにないね」という父のセリフだった。その頃は「もてない」という意味を正確に理解してはいなかったが、その言葉が、その後の思春期を通じて、知らず知らずのうちに意識の奥深くに浸透し、ボデーブロー効果となって、心の奥深く出大きくなっていった。 一考は、女ばかり五人姉妹の長男で、それだけに大事に甘やかされて育てられ、大学を出て就職するまでは、下宿などの外気に晒されることもなく、ずっと自宅からの通学だった。そのことが、一考の性格形成上でマイナスに作用したことは確かで、日陰で育った草木のように、精神面で強靭さに欠けるものとなった。加えて、生まれつき体格も貧弱で、小柄で背が低く、小、中学生を通じて、背の低い順に並ばされると、いつも一番前近くにいる常連だった。
 しかし、見掛けによらず、結構忍耐強く、高校生までは多少勉強が出来たということで、皆の関心を惹く存在であったことが、一考には数少ない精神面での拠り所となっていた。   
 ところが、自信を持って臨んだK大学入試では、うかつなミスが重なって、ぎりぎりで滑り込んだ事情から、唯一だったその拠り処の自信も影が薄くなり、逃げ道のない城壁の中に閉じ込められたような退屈で面白くない学生時代を送ることになった。そして、若くして、自分が女性にはもてない男だということを、弁(わきま)えた人間になっていた。
 幸いなことに、大学を卒業する頃になって、そんな自分に嫌気を覚え、何とかそのような暗い毎日から抜け出したいと思う強い気持ちが芽生え始めていた。しかし、ピストン運動のように自宅と学校を往復する学生時代の単調な日々の中では、これと云った打つ手を見つけ出せないまま卒業を迎えたのだった。(以下、明日に続く)

タグ : 阿久悠 安倍総理 赤城大臣 美空ひばり

含羞(がんしゅう)

 アンチ宮里藍である筆者は、今朝はやや重苦しい気分に苛まれている。国賊と呼ばれるかも知れないが、彼女が今週行なわれている女子世界マッチプレーで、今朝の準々決勝に1Upで勝ち、ベスト4に勝ち残ったからである。明日行なわれる準決勝、決勝の二つに勝つと、米国女子プロツアーでの初優勝となる。アンチ宮里藍としては、これだけは許したくないからだ。もし、彼女が優勝すれば、明日からのマスコミは競ってあの傲慢な宮里のインタビューを垂れ流すことが必至で、それを思うだけで気分が悪い。
 もう、二十年以上も前のことで、筆者は営業を担当していた頃の話だが、取引先の繁和産業におられた今は亡き大先輩の島田平太郎常務さんから「相坂さん、最近の日本女性には含羞を秘めている人が少なくなったね」と問い掛けられたことがあった。「含羞」という意味が直ぐには分からず、答えに戸惑ったことを覚えている。後で、辞書を調べて意味が分かったが、自分もその通りだと思ったことを記憶している。(広辞苑で「含羞は、はにかみ、はじらい」とある)
 宮里藍選手の、あの強気、明るさは素晴らしいものだと思う一方で、大先輩の島田常務がおっしゃった「含羞のなさ」の典型だと思った時点から筆者はアンチ宮里藍になった。
 宮里藍ファンからは激怒されることを承知で、今朝はこのブログを書いている。いずれにしても、日本時間の今夜から明日に掛けてのインターネット速報からは目が離せない。
 なお、今人気の「はにかみ王子」の石川遼選手はマスコミに取り上げられ過ぎだが、筆者の抱いている「含羞」とは、かなりの「ずれ」があることを付記しておきたい。

連載(183) 難病との闘い 第七章 あれこれ対応に大わらわ(17)

(9)不整脈
 一考は、会社時代にも、いわゆる健康診断といったものをあまり受けたことはなかった。時々、そのことで注意を受けたが、気にすることもなく過ごしてきていた、それが、雅子を岩森病院に連れて行った折に、何気なく、「生活習慣病の検査を受けられましたか?」という先生の問い掛けに「いや、受けていませんが?」と答えたのが切っ掛けで、珍しく、その検査を受けることになったのだった。一考には、全くの気まぐれから生まれた受診だった。
「基本的には異常がありません。話題の大腸癌の検査も陰性でした」検査結果を聞きに訪れた診察室での岩森副院長の報告だった。
「そうですか。それで安心しました。何しろ、この種の検査は受けたのは久し振りのことでしたので、心配していました」一考は、ほっとした気持ちで、その心境を吐露した。
「ただ、一つ、気掛かりなことがあります」岩森女医は、一考の言葉に水を差すように言葉を挟んだ。
「気掛かりなこと?」一瞬、一考は戸惑って、同じ言葉を繰り返した。
「心電図に若干乱れがあるのです。不整脈のようです」
「不整脈ですか。なるほど。これは、昔からなんですよ。今はなくなりましたが、以前は、急に胸が苦しくなって、暫く、横になってやすんで痛みがなくなるのを待っていたことが幾たびかありました。それが、不整脈によるものではと思っています。これは、私には、いわゆる、持病なんです」
「専門の先生に診てもらったことはないのですか?」
「ええ、面倒だったものですから」
「それはいけませんね。この検査を切っ掛けに、一度、診てもらってください。然るべき先生をご紹介しますから」
「分かりました。そうさせて頂きます」珍しく、一考は殊勝にそう言って頷いた。そこには、雅子の介護をしていく上で、自分の健康をしっかりと確認しておく必要性を思っての対応だった。
 その翌朝早く、一考は、岩森医師から紹介された市内の大東医院を訪ねた。(以下、明日に続く) 

タグ : 宮里藍 石川遼

石橋湛山

 昨夜、NHKで放映された「その時歴史は動いた」を見た。石橋湛山が「日中米ソ四カ国平和同盟構想の実現」を呼びかけ、冷戦回避への決死の努力を積み重ねた渾身の努力に胸を打たれた。
 筆者の無知を露呈するの訳だが、石橋湛山に関しては、岸信介を僅差で破って内閣を組織しながら、病気で短命に終わった気の毒な宰相という程度の知識しか持っていなかった。しかし、首相退陣後も、病気を押して訪中し、粘りに粘って周恩来首相の会談を実現し、持論をもって同氏を動かした。それを受けた周恩来もさすがで、大きな歴史の流れ中の素晴らしい感動のドギュメントだった。
 後に、田中角栄が日中国交を樹立するが、その根底に石橋湛山の決死の努力があったことを承知していなかった筆者は、快哉の思いで番組に陶酔していた。最初に井戸を掘ったのは、実は湛山だったと自分の記憶を書き換えた。

連載(166) 難病との闘い 第七章 あれやこれやで大わらわ(1)

(1)社会保障
 2006年の5月の定期診断時に、吉田病院の春日医師に障害者としての認定について相談したのが、社会保障を受けることになる切っ掛けだった。
 申請手続きなどに全く知識を持っていなかっただけに、その対応は、いわば、右往左往の「大わらわ」と云うべき最初の対応だった。申請書、戸籍謄本、住民票、顔写真、診断書などの必要書類を取り揃えて、申請を行なったのが6月末である。
 そして、今の雅子には、まさに三種の神器とも言うべき、身障者手帳、特定疾患患者手帳、介護保険認定などを頂戴できたのが2006年秋だった。
 かくして、それまでは、税金を納める一辺倒の立場だった一考が、一転して、社会保障の恩恵に浴する立場に、180度、大きく変わったのである。
 一考は複雑な気持ちだった。それと云うのも、雅子が、人間としての多くの機能を喪失していく代償として、この種の恩恵を受けられるという事実に関してだった。有り体に言えば、出来れば、この種の恩恵を受けることなく普通に暮らせることがベターでなのは自明である。しかし、一旦、このような難病になってしまったからには、有難い制度であることは確かである。
 事実、この三種の神器で得られる恩恵は、経済的にも精神的にも心強いものがある。身障者基礎年金を始めとして、その他にも幾つかの経済面での恩恵がある。例えば、交通費では50%、タクシーでは10%の割引の対象になっているし、通院時の車代ということで、ガソリン代の一部支給を受けられる。
 また、特定疾患患者認定では、その治療に関するお薬代が無償になり、治療費も最高限度額を超えた分は、支援を受けられる制度になっている。
 また、介護保険で「要介護状態区分4」の認定を受けたことで、次のような多くの介護関係のサービスの提供を受けることが出来るようになった。
 高さや角度を可変の三段式特殊寝台、上下自動調整型の電動昇降椅子、車椅子などの必要な介護用品のリース、更には、段差解消や手摺の据付工事などの支援を頂戴することが出来た。その受け入れや対応で、一時的にはばたばたしたが、それは、紛れもなく有難い「大わらわ」だった。(以下、明日に続く)

タグ : 石橋湛山 岸信介 周恩来

美空ひばり

 NHK衛星第2テレビで昨夜から今夜に渡って「美空ひばり」特番を、「何と10時間」も放映中である。「生誕70年、珠玉の70曲」と題しての大々的な取り上げだ。集められた秘蔵の映像がかなりあるらしい。ファンにとっては堪らない企画だ。
 筆者には、小学生頃から、彼女の歌には記憶がある。但し、流行歌といわれていて、低俗視していたこともあって、ほとんど興味は持たなかった。自分の考え方が、幼い頃から、トップではなく二番手(弱い者)を応援するタイプだったことで、巨人が嫌いと同様に、嫌いな歌手の一人だった。
 しかし、社会人の終わりの頃になって、カラオケの登場で歌謡曲にも関心が出てきた頃から、筆者のレパートリーの中に、彼女の歌がかなりの数を占めるようになった。彼女の歌のうまさに惹かれた結果である。
 特に、死を目前にして歌った「乱れ髪」「愛、燦燦」「川の流れのように」は、そのうまさを見事に集約したもので、とても好きな歌である。
 亡くなって18年目を迎えて、なおNHKがかくも取り上げるだけの存在であったことを改めて思う。死後の受賞だったが、国民栄誉賞も、当然の結果だったのだろう。

連載(155) 難病との闘い 第六章 機能喪失の一部始終(12)

(5)歯磨き 洗顔
 10月に入ると、朝食時のコーヒーカップが持てなくなって来ていた。そして、11月に入ると、洗顔時に、口をゆすぐ際に、そのカップを持つのが難しくなったのである。一歩一歩、病魔は雅子を試すように悪化を楽しんでいるようであった。それでも、雅子は、何とか、片手であったが、一人で洗顔をしていたが、11月の後半に入ると、遂に、一考の助けが欠かせなくなった。
 一般的には、毎食後の歯磨きが理想であって、雅子も、一人で出来た時までは、三度の歯磨きを実行していたが、一考の世話が必要となってからは、一日に毎朝夕二回に止めることにした。一考への遠慮があっての自主規制なのだろう。
 今まで、何とも思っていなかった事が、一つずつ出来なくなって行くことに、雅子には、驚きや不満よりも、諦めが先行しているようだった。ここまで来ると、悔やんで見ても、焦ってみてみても仕方がない。とにかく、何処までも、与えられた土俵で精一杯頑張るしかないと自分に言い聞かせているようだった。
 具体的なサポートの方法も、症状の悪化と共に自ずと変化してゆく。お箸が握れなくなった頃のサポートは、歯ブラシに、歯磨き材を載せてやることと、不安定な姿勢を少し支えてやる程度でよく、歯磨きそのものの行為や洗顔は、何とか、雅子が自分で行なうことが出来た。それが、カップが持てなくなった11月初めには、電動はブラシを持って、口に入れて磨いてやらねばならなくなったし、口をゆすぐ際にはカップを持って、口に水を注いでやることが必要となった。また、11月後半に入ると、身体の支え方も、かなりしっかりと支えなければならず、結構な重労働となった。また、その前後の洗面所への移動も、手を引いてのサポートは欠かせなかった。
 一考も2007年1月で66歳となり、力仕事には不向きな年齢になっていた。それに、かつて、歩いて鍛えていた足腰も、次第に弱ってきていたことで、介護でも、なるべく、疲れを少なくする、いわゆる、省エネ対策が急務となっていた。
 しかし、2007年2月頃になると、身体の支えは、単純な支えだけでは手に負えなくなってきた。腕を抱えて、自分の肩を差し入れて持ち上げるようにしなければならなくなり、その場合は、他のサポート作業は片手で対応を余儀なくされた。
 一考も、いろいろと省エネのために腐心していたが、そこで思いついてのが、タクシー、即ち、屋内車椅子の利用で、これに座ったまま、歯磨き、洗顔をする方法に変更した。2007年5月に入ってからで、これで、それまで大変だった歯磨き、洗顔の力仕事を、のんびりとした介護作業にと変換することが出来た。(以下、明日に続く) 

タグ : 美空ひばり

| ホーム |


 BLOG TOP  » NEXT PAGE