プロフィール

Author:相坂一考
滋賀県大津市出身
07年1月に推理小説「執念」を文芸社から出版

このブログは3部康成です。1部が「コラム」、2部が連載「難病との闘い」、そして3部が、速報、「昨日の雅子」です。

 

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女流棋士へのいじめ

 将棋界も今日が年度末で、今年度の最優秀棋士賞が佐藤康光棋聖、棋王に決まった。何しろ、7つあるタイトル戦の内、6つに登場、5つのタイトル戦に連続挑戦の新記録を樹立したことは既に記した。その中で新たに獲得したのは最後の棋王だけだったが、対局数や勝数もトップで、加えて、NHK杯や、将棋日本シリーズでも優勝をしている。お見事な一年だったと言える。
 今年度の話題としては、名人戦が今までの毎日新聞主催から、毎日、朝日の共催に変わるという大事件があったが、これは米長会長の勇み足で、一時は混乱、結果的に、共催に落ち着いて事無きを得た。今までの付き合いを無視して、単に契約金の増額を狙ったというビジネス道に悖る采配は、トップとしての資質が問われる。
 今朝の新聞で、女流棋士グループの独立の動きに関し、将棋連盟が行なった踏み絵の結果、今の連盟に残留を希望した棋士が、全女流棋士55人中、36人に達したという。最初は、独立を促し、それをサポートするような対応から、一転して分裂を誘うような、米長邦雄連盟会長の対応には、許せないものを感じている。兄貴は頭が悪かったので東大に行ったが、自分は頭が良かったので棋士になったと方っていた頃の米長には味があったが、門下生だった林葉女流棋士を育て得なかった責任の一端も同士にはあるはずで、中原誠永世名人と共に一世を画した棋士としての雄姿の面影が薄くなっているように思える。
 別件だが、女子ゴルフのメジャー、クラフロナビスコ第二日は、宮里愛は健闘して通算+5で(現時点、38位タイ)ホールアウト、日本人選手の大山志保(+7)、横峯さくら(+8)、不動祐里(目下プレイ中で+5)は、全員、揃って何とか予選を通過しそうだ。明日以降の巻き返しを期待している。

連載(70) 難病との闘い 第四章 手探りの二人三脚(3)

 翌日の午前中は恒例の箱根駅伝をテレビで楽しみながら、ゆっくりとホテルで過ごした、早く起きて、孫の顔でも見ていたいとも思ったが、息子夫婦に朝から付き合わせるのも大変だろうと配慮したからだった。 昼頃に、二郎が車で迎えに来たので、改めて息子のマンションを訪ねた。前日に雅子がお雑煮の作り方を指南していたが、それに従って嫁が用意したお雑煮を共にした。急ぐこともなかったので、ゆっくりと時間を過ごした。孫を媒介としての会話が盛り上がった。まさに、「子は鎹」であり、「孫は親子の絆」だと一考は思った。孫の顔を見ていると、嫌なことも忘れられ、何もかもが輝いているように見えた。雅子も、手の不自由さで、思うように孫を抱き締められなかったが、顔を合わせているだけで満足そうだった。
 この日の午後、機会があれば行って見たいと思っていた大宰府天神に、一考と雅子はお参りに出向いた。二人とも、そこを訪ねるのは初めてだった。それほど混んではいなかったが、二人はそれぞれの思いを胸に、長い参道を揃って黙々と歩いた。
 天神さんの前では、雅子は、時間を掛けてお祈りをしていた。恐らく、この病気の症状が少しでも軽くなるように祈ったのだろうと思っていたが、帰り道で確認してみると「長男にいい嫁が来るように」とか、「孫が健やかに育つように」などと、自分以外のことに多くの時間を割いたということだった。一考は、雅子は自分の病気については、もう開き直った覚悟が出来ているのだろうと思うのだった。
 翌3日は、孫の顔を見にマンションを訪ねたのは午後になってからだった。しかし、まだ、六ヶ月少々では、反応も今一つで、落ち着いて孫と遊ぶといった気分にほど遠かった。一緒に住んでいないから、打ち解けた形でなじむには至らず、少々もどかしさを覚えていた。生まれる前には、孫から親しまれるおじいさん、おばあさんになろうと思っていたが、それは容易でないと諦めの心境だった。一考は、生まれて来たら、なるべく早くから英語を教えてやりたいとか、何してやりたいとかを考えていたが、実際にこうして顔を合わしてみると、もはや、自分がでしゃばる世界ではないと思い直し、そんなものなのだろうと自分に言い聞かせるのだった。恐らく、自分の両親もそんな気持ちで自分達夫婦を見ていたのだろうと一考は思うのだった。
 博多での最終日の4日の朝、新幹線ホームで、見送りに来てくれた二郎夫婦と孫に「さよなら」を言って、博多を後にした。何かわさわさした落ち着かない「あっという間」の正月だったが、雅子には気分転換ができたことで、病気の進む不安な中でも、小さな幸せを堪能しているようだった。(以下、明日に続く)

タグ : 佐藤康光 米長邦雄 中原誠 宮里藍 横峯さくら 大山志保 不動祐里

甘くはないプロの世界

 注目されていた楽天の田中将大投手が先発するということで、興味を持ってテレビを見ていた。少し前まで高校生だった訳で、将来の逸材とは言え、どの程度通じるのかに関心があった。
 しかし、甘くはなかった。プロの洗礼を容赦なく浴びた。しかし、である。「れば」「たら」の話だが、2回の裏、まだ同点の段階で、ソフトバンクの大村選手に投げた一球がきわどかった。「ストライク」と判定してもおかしくなかった。それが、「ボール」となって、一気に崩れていった。プロは甘くはなかったが、ある意味で、審判も甘くはなかったのだ。
 今朝の、ワイドショーで、ゲスト出演していた星野仙一監督が将来性のあり選手を育てることはプロ野球界では急務であり、審判もあれは「ストライク」とコールしてやっても良かったのではとコメントしていた。大胆なコメントだが、筆者も同感だと思った。
 まだ、始まったばかりだ。田中投手は何も悲観することはない。6点も取られて負け投手を免れたのであるから、神はしっかりと見守ってくれているのではと思っている。
 一方、女子ゴルフの話題だが、注目の宮里藍は、勝利はもう手の届くところまで来ているといわれているが、これも甘くはなさそうだ。日本時間で昨夜から始まっている、今期最初のメジャーのナビスコ杯で、出だしは+4と少し出遅れている。春は何処まで来ているのだろうか?

連載(69) 難病との闘い 第四章 手探りの二人三脚(2)

 一考が帰郷して数日後に迎えた平成17年のお正月は、いつもとは違って、多少慌しい段取りの中で迎えていた。
 先ず、雅子の用意したお雑煮で、母親をまじえて三人で元旦を祝った後、一考と雅子は次男の二郎の家族がいる博多に向かった。次郎たちは、両家に配慮して一年交代で正月を過ごすことにしていて、今までの順序だと、次郎たちが、大津の実家に来て、一緒に正月を迎えることになっていたが、子供が生まれて半年少々であり、長距離を移動するのはよくないとの考えから、一考らが博多に移動することにした。そのため、姉の久子が母親の面倒を引き受けてくれた。兄妹思いの久子らしい配慮である。
 幸い、元日の昼過ぎの博多行き新幹線は混んでおらず、のんびりとしていた。自分達の経験から、親が訪ねて行くことで、息子達になるべく迷惑を掛けないようにとの配慮と、彼らのマンションのスペースのことも考慮し、寝泊りは、一考が現役時代によく使ったビジネスホテルのツインを使うことにした。雅子の症状は左手の不自由さが目立って来てはいたが、移動、宿泊などには、一考のサポートで、幸い大きな支障にはなっていなかった。
 久し振りの孫との顔合わせは、天神の一角にあるシャブシャブレストランだった。その入口付近で、孫を抱いた嫁と一緒に二郎は、一考らの到着を待っていた。暖冬とは云え、夜風が冷たい中で、孫を抱いていた姿に、風邪をひかないかとの心配だったが、しっかりと厚着で防寒し、二人を愛想よく迎えてくれた。
 半年振りに見る孫は、生まれた時のか弱さから、ふっくらとしていて、順調に育っている様子が窺えた。嫁はおっとりとした性格で、物怖じしない、しっかり者だが、最近の若い人たちと同じで、細かい気配りの点では、おおらか過ぎるようでもあった。
 赤ん坊を交えた五人は、久し振りの会話を楽しんだ。長男の太郎は、アルコールが飲めない体質なのだが、二郎は逆に結構いける方で、特にビール一辺倒だった。コンピューター関連の営業を担当しているということで、仕事柄、そういう場も多くあるようだった。しかし、嫁の美夏は、全く飲まないという。アルコールに関する限り、プラス、マイナスなのだが、これで、バランスが取れていると見た方がいいのだろう。
 二人の息子とも、普段は、親に対してはあまりしゃべらない無口なタイプなのだが、この夜の二郎は、お酒が入るにつれて、珍しく、今まであまり見せたことのないような饒舌になっていた。子供が生まれて父親になったことで、嬉しさとそれなりの自信が滲み出てきているのだろうと一考は受け取っていた。そういう意味では、太郎にも早く良縁が見つかって欲しいと思うのだった。(以下、明日に続く)

タグ : 田中将大 宮里藍 星野仙一

五度目の正直、佐藤棋聖、棋王位奪取で二冠に

 将棋界には七つのタイトル(名人、棋聖、王位、王座、竜王、王将、棋王)があることはご承知の方も多いと思うが、今年度(平成18年度)は、佐藤康光棋聖が、名人戦を除く六つのタイトル戦に全て登場、保持していた棋聖位を防衛後、残る五つタイトル戦に連続挑戦をする新記録を打ち立てた。
 一つのタイトル戦の挑戦者になること自体が、大変厳しい予選を勝ち抜かねばならず、容易でない上での五つ連続の挑戦は、画期的なもので、驚きの新記録だった。
 しかし、昨年の七月から始まったこれまでの四つの挑戦(王位、王座、竜王、王将)では、王位戦、王座戦、王将戦は共に羽生三冠に、竜王戦では渡辺竜王に、残念ながら惜敗の連続で涙をのんでいたが、昨日行なわれた五つ目のタイトル戦の棋王戦の最終局で、森内棋王に勝って、通算3勝2敗で棋王位を奪取した。文字通り、五度目の正直だった。神様も、最後までは、意地悪せず、佐藤に微笑んだ形となり、今日のブログのタイトルが「四度あることは五度ある」にならなかったことにほっとしている。
 4月の新年度からは、いよいよ名人戦が始まる。森内名人が棋王位を失冠したことで、メンタルに微妙な影響を受けたはずで、挑戦者の郷田真隆ファンの筆者は、それに突け込んでタイトルを奪取して欲しいと今から楽しみにしている。
 将棋は、インターネット観戦に最も適合していて、毎度、大いに楽しませてもらっている。

連載(68) 難病との闘い 第四章 手探りの二人三脚 (1)

「これからは、厄介なことは僕に任せてくれ。今までの苦労を埋め合わせることは出来ないかもしれないが、可能な限り、いい旦那になるように頑張るよ」帰郷早々に一考が雅子に掛けた殊勝な言葉だった。
 年の瀬の慌しさの中で得た安らぎの言葉に、雅子はほっとしたように微笑んだ。何しろ、旦那様から、そんな優しい言葉を掛けられたのは新婚時代以来のことで、何か、テレビのホームドラマでも見ているようで、多少の戸惑いさえ覚えていた。
 しかし、雅子には一考への幾つかの不安が内在していた。それまでの長い間の単身での自由な生活から、お母さま中心の不自由で、単調で地味な生活に加えて、左手首の不自由な妻の面倒を看る厄介な生活に、堪えられるかが気掛かりだった。
 加えて、学生時代から一考の念頭には、創作活動という夢への挑戦があって、趣味の延長という捉え方ではあったが、暇を見つけては夢の実現に向かって取り組んでいた。退職後も三年間、東京に居残って、地道に活動を継続していたのも、それへの執着があったからだった。書き上げた幾つかの作品を、出版社のコンテストや各種文学賞に応募したが、夢は叶わなかったと、一考から聞かされていて「才能がなかったと自覚できての、御旗なき帰郷だ」と開き直り、自分では「悔いは無い。すっきりした」と快活に話してはくれたのだが、本当に自分の気持ちがきちんと整理できているのだろうかが、雅子の不安材料だった。
 一方、一考自身も、口では明るく、雅子を励ましてはいたが、この難病の中身を知るにつけ、重苦しい不安と開き直った気持ちが交錯していて、熱い物と冷たい物を同時に飲み込んだような不安な気分だった。それと云うのも、この病気は、命には心配がないが、進行性で不治の難病であることから、先行きへの掴まえ所のない不安が募るのだった。今の時点では、日常生活には実質的には大きな支障はないにしても、これがどんどんと進行し、場合によっては身体全体に不自由さが拡大してゆくとしたら、どうなるのだろうか。得体の知れない悪魔を抱え込んだようで、今後を思う時、気の毒を通り越した哀れさに胸が痛んだ。
 しかし、いつまでも、そんな受身の同情だけでは何の解決にも繋がらない。自分が身を挺してサポートする以外に彼女を守ることは出来ないと、一考は自らに言い聞かせた。それは、いみじくも、今まで何事も任せ切りにして来た自分の至らなさの報いであり、自らに起因する不幸と捉え、それへの償いとして全力を尽くして雅子を守って行こうと、改めて気持ちを引き締めるのだった。同時に、単に不安を「憂う」のではなく、開き直って「なるようになるのだ」と腹をくくり、如何なる展開にも力強く応戦して行こうと、自らを叱咤激励するのだった。(以下、明日に続く)

タグ : 佐藤康光 郷田真隆

植木等氏を悼む

 あの「スーダラ節」が流行っていた頃は、まだ大学生だった。それから、サラリーマン人生の前半は同氏の活躍と共に歩んでいた。しかし、私には「サラリーマンは気楽な家業」でもなかったが。
 世の中が高度成長して行く過程で、一つの明るい推進力を与えてくれていたのは確かだった。決して「はいそれまでよ」ではなく、楽しい思い出を沢山くれた非凡な無責任男と申し上げて置きたい。ご冥福をお祈りします。
 それからおよそ十年後、筆者のサラリーマン時代の中盤に差し掛かった頃に起きた西山太吉事件は、毎日新聞の大スクープで、衝撃的であったことで、筆者の記憶には生々しく残っている。結果的には外務省女性職員との不倫の関係のスキャンダルとして扱われてしまい、肝心の機密漏えい事件はうやむやにされた。
 それから35年、西山氏が改めて「不当起訴などで損害賠償と謝罪を求めた」裁判での判決が、昨日の東京高裁で行なわれたが、時間が経過し過ぎているとして賠償請求を棄却したが、密約の有無に触れておらず、肝心の問題から逃げていることには、大いに不満である。
 外交機密の扱いと国を売るような対応への反発とは、どんなバランスで扱われるべきなのだろうか。

連載(67) 難病との闘い 第三章 病魔が牙を剥き始めるまで(28)

 退職時に盛大にやってくれた仕事仲間とのお別れ会も感動的だったが、帰郷すると言うことで、集まってくれた同期の仲間達との飲み会も、楽しく、温かいものだった。互いに競った仲間だったが、退職して三年も経つと、気分的には相互に丸くなっていて、今更、厳しかったゲームのことには触れることもなく、楽しい時間を過ごすことが出来た。年齢的に見て、もうこのメンバー全員と同時にお会いすることはないだろうと思うと、感情も高ぶってくる。仲間の一人が俳句をやっていて、記念に色紙に一句作ってくれた。「迷いなく 帰る大津を 恵方とす」は、帰郷後も、ずっと、一考の手元にあって、数多くの思い出と共に飾られている。
 改めて思うに、東京での長いサラリーマン生活での戦いは、設定していた自分の目標レベルを達成できず、残念ながら、負け戦に終わったが、それでも退職後に、歩きと執筆の2Wで楽しんだ3年間は、望外の実績と思い出を作ってくれた。
 健康保持を目的として始めた歩きは、地図上で測定すると、総距離で、およそ2500Kmに達していた。日本列島を縦断した距離に相当する。良くぞ歩いたと自分ながら感心する。その結果、大抵の有名な道、通りは歩いたし、23区内にある77の警察署を訪ね回ったし、名の知れた観光スポットを織り込んだ散歩コースも42を数えた。また、長距離歩行でのマラソン距離の挑戦も、琵琶湖毎日マラソンコースの1本を含めて16本を数えた、最後に挑戦した高尾山入り口から自宅まで、甲州街道を延々と歩いたコースは、それが最後になっただけに特に印象深い。
 結果的に、最も入れ込んだのは、23区内にある名前の付いた坂道探索だった。見つけた坂道は、何と680台に達していた。帰郷を目前にし、駆け込み的に最後に訪れた坂道は、小田急の成城学園前付近にある「畳屋坂」だった。探すのに苦労すると思っていたが、直ぐに見つかった。荒玉水道近く、砧小学校交差点手前の仙川近くにあった。結局、これが、坂道探索の取り敢えずの「トリ」の坂道となった。自らがエクセルシートに纏め上げた坂道リストは、今や一考の掛け替えのない宝物である。
 なお、坂道に関しては、前年の10月から東京新聞に連載が始まっていた「坂道を歩こう」というエッセイで、そこに紹介される坂道をフォローすることも、その頃の日課になっていた。連載はまだまだ続きそうなので、大津に帰っても、この掲載分だけは引き続き入手し、その点検をしながら楽しみたいと思っている。(結果的には150回の連載だった)
 悲喜こもごもの多くの思い出を、記憶と言うボックスに納め、故郷に飾る錦の御旗はなかったが、雅子のサポートという新たな使命感に燃えて、一考が慌しく帰郷したのは、暮も押し詰まった2004年12月27日の夕方だった。(この章は完了で、明日からは第四章、手探りの二人三脚が始まります)

タグ : 植木等 西山太吉

女流将棋界分裂の危機

 2勝2敗のタイを受けて、昨日行なわれた女流の将棋名人戦、最終局は、筆者が大のファンである矢内理絵子名人が、中井六段の挑戦を退け、3勝2敗で名人位を防衛した。女流棋界も今までの、清水、中井、斉田の3人のベテラン時代から、中堅の矢内、千葉、石橋、そして、中学生の新星、里見香奈の時代に移りつつある。
 ところで、女性棋士の環境改善を目指しての日本将棋連盟からの独立の企画が、ここに来て、暗礁に乗り上げているようだ。当初はその動きをサポートしていた日本将棋連盟が、大人気なくへそを曲げて、意地悪をしているように思える。
 ことの始まりは、新しい女性グループが、その新団体の設立に先立って、各企業に出した協力要請の案内が、事前に日本将棋連盟の了解を得ていなかったことから、こじれていて、いまや、同連盟が、全員の女性棋士に、このまま日本将棋連盟に残るか、新しいグループに移るかの返答を迫る書状を送りつけていると言う。まさに、踏み絵だ。新しいグループがどうなるかはっきりしていないだけに、踏み絵を突きつけられて、返答の仕様がないというのが、各女性棋士の心境だと思う。しかし、既に、何人かの女性棋士が連盟に残ると返答し、分裂が避けられない状況にあるという。
 筆者の知る限りの情報では、連盟の会長である米長邦雄会長の意地悪としか思えない。東京都庁の教育委員会の委員でもある同氏の人間性に疑問を持つ。将棋ファンとしては、分裂を避けた円満な解決を切望する。

連載(66) 難病との闘い 第三章 病魔が牙を剥きお始めるまで(27)

 東京に戻った一考は次第に焦燥感を覚え始めていた。荷物の整理が思うように捗らない。経費のことを考えて、一人で荷造りを始めたが、結構大変だった。三十数年の東京生活の思い出が至る所に残っていて、整理するのに未練があって苦労した。大津の実家もそのスペースが限られていることから、余計なものはなるべく処分する方針だった。
 ワンルームマンションという狭いスペースを立体的に活用するために、一考は組立家具に結構な投資をして来ていた。何種類かのパネルとそれを支えるポール、継ぎねじ、それにキャスターなどで簡単に組み立てられるし、取り外し、組立変えなどが容易で、楽しく活用できることから、趣味的に入れ込んで活用していた。これは実家でも大いに活用できるはずだった。それ以外では、小説の題材にと集めて来ていた多様な資料が結構あったが、この際、思い切って処分に踏み切った。今更、それらまで取り上げて書くような機会は巡って来ないと諦めもついていた。
 帰郷までの残された時間が切迫する中で、やっておきたいことも幾つか残されていたし、仕事仲間だった友人たちからの心遣いでの改めての送別会を用意してくれていて、限られた時間のやりくりを楽しんでいた。
 一つは、三十数年も東京にいながら、皇居の吹上殿に入ったことがなかった。一旦帰郷してしまえば、恐らく、もうそんな機会を作るのは難しい。残されたチャンスは天皇誕生日しかなかった。
 この朝、一考は早起きして、7時半過ぎに家を出たが。半蔵門に出たのが失敗で、正門まで2Km程度歩いて所定の待機列の位置まで急いだ。時刻は8時45分になっていたが、幸い、その列ではまだ誰も並んでおらず、自分が一番先頭だった。列は三つに分かれて組まれていて、真ん中の先頭辺りには、右翼とおぼしきグループが多く占めていた。そして、列は9時半に移動を開始、45分頃に吹上殿前に到着した。その堂々たる建物は、長さ150メートルほどの大きな緑の屋根があって、伝統的な厳かさを感じさせた。
 間もなく、合図があって、列はそこで一気に横に広がって吹上殿を取り囲む形に組みかえられたが、ここでも一番前の位置を占めることが出来た。寒い中で待つこと三十分、10時20分に天皇一家が登場、かぶりつきで拝顔させてもらった。挨拶は2-3分で、あっけなかったが、初めての体験に満足していた。後は、流れ解散的にゆっくりと歩いて桔梗門から外に出た。清々しい気持ちであった。(以下、明日に続く)

タグ : 矢内理絵子 里見香奈 米長邦雄 吹上殿

能登半島

 科学が進歩しても、未だに予測が出来ないのが地震だ。昨日は、能登半島を襲った。倒壊した家屋、崩れ落ちた道路、崖などの惨状を見ていると、地震の持つ巨大なエネルギーに圧倒される思いだ。神のいたづらといった表現では済まされない。しかし、規模の割りに、今のところ死傷者が少ないのは不幸中の幸いだ。
 石川さゆりの「能登半島」は筆者の好きな歌謡曲で、幾たびもマイクを手に歌ったことがあったが、これからは、歌うたびに、この地震のことを思い浮かべることになるのではと思う。
 筆者の住んでいる処は、琵琶湖西岸の活断層の上である。最も高い確率で近い将来、地震が起きるとされている地区だ。それだけに、今回の地震も他人事ではない。さりとて、不意を襲う地震には、何か特別な防護手段がある訳でもなく、最小限の準備は欠かせないが、神の配慮に預かる以外に、安全確保の手段は見当たらないのは心細い。
 ところで、国技館でも夕方、ちょっとした衝撃が走った。朝青龍白鵬の奇襲に土俵に手を着いてしまったのだ。勝てばいいことは確かだが、力戦を期待しただけに少し期待を外された感は否めない。
 急襲は地震だけの専売特許ではなく、スポーツでは効果ある手段として、しばしば用いられる。とにかく、白鵬にはおめでとうと言いたいし、一方の朝青龍の強さ、勝利への執念には改めて感動させられたが、日本人力士が絡んでいないのは寂しい。

連載(65) 難病との戦い 第三章 病魔が牙を剥き始めるまで(26)

 帰郷は12月末と決めていたが、雅子から、それまでに、もう一度大津に帰って来て欲しいという要請があった。11月末のことである。大型ゴミの収集日で迫って来ていて、この際処分したいものが多くあるのだが、左手の不調から自分では対応できないという。年に4回しかない収集日なので、簡単に、次回にと云う訳にもゆかない。今まで、全て雅子任せであったが、今回はさすがに、手の症状が悪化して来ていて、今までのようには手に負えず、一考の手助けが不可欠だった。
 11月27日に帰宅した一考は、この機会に初めて吉田病院の定期診断に雅子に付き添って、春日医師に面談した。体つきは華奢な感じで、如何にも研究者といった感じだった。その道の権威らしい雰囲気を持っていて、雅子好みのタイプだった。元々、ブランド志向の強い性格の雅子は、見栄えの冴えない夫を友人達に紹介することには消極的で、今回も、付き添いなんて止めて欲しいと懇願したが、夫の義務だと諭しての同道だった。しかし、その一年後には、雅子の症状の悪化は想定外で、一考の同道は不可欠となるのだから、人生は実に皮肉なものである。
 この滞在期間は、いろいろと多忙だった。引越し荷物の受け入れスペースを確保するための模様替えを行なった。大きなタンスや本箱、鏡台などを移動させることで汗を流した。
 この間、母が体調崩し、久子が泊り込んで看病した。一考は、長男である自分達で、それをカバーできず、久子に頼らざるを得なかったことに、忸怩たるものを感じていた。
 また、この間に行なわれていた母屋の縁側のサッシ工事にも立ち会ったし、運転免許の更新手続きをも行なったりして、慌しい、ばたばたした一週間の滞在だった。
 それらの雑用を済ませて、引越し準備のために東京のマンションに戻るに際し、さし当たっての最後の上京となるのだと思うと、珍しく、一考は、センチメンタルな思いになっていた。三十年間あまりに渡る東京での生活は、楽しかったし、生き生きしていたし、失望して落ち込んだこともあったし、人生の勝負を挑んだ決戦の舞台として申し分なかった。それは、感謝と無念の複雑な気持ちだった。一考は、その日の日誌に、「負け犬の 最後の上京 冬ぐもり」と記した。(以下、明日に続く)

タグ : 能登半島 石川さゆり 朝青龍 白鵬

報道談合

 注目の世界フィギュア女子シングルで、日本は、安藤美姫の金、浅田真央の銀という見事なワン・ツーフィニッシュを成し遂げた。安藤選手の復活、頑張りは、最終演技者としてのプレッシャをもろともせず、それまでの努力を開花させた見事なものだった。安藤ファンは、久し振りに、大いに溜飲を下げた喜びに満ちたものだったはずである。一方の浅田ファンには、健闘を称えながらも、今一つ充足不足の感を否めないものがあった。
 二人は、それぞれ前夜をいろんな思いを頭に描きながら過ごしたのだろうが、真央の場合は、SPが想定外に不出来だっただけで、恐らく、一晩、苦しんで過ごしたのではなかろうか。しかし、その精神的な負担を跳ね返し、見事に演じ切った浅田真央の精神力は、あどけなさが残る16歳であることを考えると大したものだと改めて思う。
 とにかく、この競技は、自分が実力を発揮することが第一だが、相手のミスを期待する部分があるところに、微妙なメンタル面での葛藤が存在する。韓国のライバル選手が2度転んだことが、この日本の快挙を演出したことを思うと、採点競技の常とは言え、精神的に不健康さを覚えながら観戦となる。
 なお、この種のスポーツは今や、何処かのテレビ局一社が独占放送することになっていて、その放送が終わるまでは、原則として、結果の報道(これはニュースである)が封印されるというしきたりになっている。これは、明らかに「報道談合」に他ならない。しかし、実際には、何処かの新聞社のHPで、抜け駆けしてくれることで、先に結果を知ることができるという妙な現実である。朗報を一刻も早く知りたがっている多くの国民が注目しているこの種の競技は、生中継が望ましい。
 独占放映権を取得したなら、持って回った映像構成や、焦らしのテクニックなどの妙な演出による録画放送は止めて、堂々と、生中継で放映すべきだと、強く主張しておきたい。報道談合は許しがたいメディアの横暴だ。

連載(64) 難病との闘い 第三章 病魔が牙を剥き始めるまで(25)

 一考の受けたショックは小さくはなかった。そういえば、今回帰って来た直後に、母親を交えてお墓参りに出掛けた時も、いつも安定している雅子の運転が、少々乱れがあったことが思い出された。また、この帰郷期間中に、妻の日常生活の所作を垣間見るにつけ、料理での包丁使い、着替え時のボタンの閉め外し、缶、ビン、各種パックの蓋の開け締めで手間取っている雅子に、以前よりも症状が悪化しているのではと感じてはいたが、気の毒さと若干の不安を覚えたにとどまっていて、運転に支障が出るとは考えていなかった。
 このまま、雅子に運転を続けさせることは危険である。あのS字カーブでの出来事は、左手に黄信号が灯ったことを教えてくれたのだ。一考は、そう考えると、ここは決断のしどころだと自覚した。今や、都内の歩きや執筆にうつつを抜かしている場合ではない。
 一晩、自分の考えを整理した一考は、翌日、東京撤退を決意し、十二月末に帰郷することを決断した。これ以上もたもたしているゆとりはない。取り返しのつかないことになってはいけないというのが一考の決断を促した。
 そして、早速、雅子を助手席に座らせて、車の運転練習を開始した。何しろ、日本で運転するのは、かれこれ十数年ぶりで、運動神経に音痴な一考には不安が付き纏う特訓の始まりだった。とにかく、ここでの生活には車がなくては成り立たない。九十二歳になる母親の世話をするにも車は不可欠で、一刻も早いマスターが必要だった。
 数日後、一考は一旦東京のマンションに戻った。直ぐに、引越しの手配、準備に取り掛かったが、各種の手続き、手配、それに友人達とのお別れ、遣り残している課題など、結構時間を必要とすることが多かった。中でも荷物作りは、三十年以上の東京生活での垢が蓄積されていた上に、部屋が狭くて、パーッケージした荷物の置き場所がなく、そのやりくりに汗をかいて奮闘せざるを得なかった。(以下、明日に続く)

タグ : 安藤美姫 浅田真央 報道談合

代理出産

 昨日、タレント、向井亜紀さんとプロレスラー高田延彦さん夫婦が米国人女性に代理出産を依頼して生まれた双子の出生届け受理を認めた高裁の判決を最高裁が破棄した。
 科学の進歩に法律が着いていっていないということは多いのだが、この件に関しては、筆者も大いに躊躇する問題である。筆者は、こと「生命」に関する限り、神の領域にむやみに入り込むことには賛成しない。人間の知能は何時の日か、人間そのものをつくってしまうことも考えられるし、現に、クローン人間は、技術的にも一歩手前まで進んでいるようだ。
 人間を豊かにする技術を利用することは誰もが大歓迎だが、不幸にする、或いは、人間そのものの存在体系を破壊するような技術は、現に慎むべきで、決して使用してはいけない。原子力の有効活用は歓迎されても、原爆が許されないと同じ理屈である。
 人間には「運命」と称される与えられた人生があって、その範囲内で懸命に生きることが、人間の正しい生き方なのではなかろうか。
 問題は、既に、生まれた子供さんの扱いである。当然ながら、子供さんには罪がない訳であり、然るべき対応を望みたい。

連載(63) 難病との闘い 第三章 病魔が牙を剥き始めるまで(24)

 一考にとって、結果的に重要な日付となった11月12日を迎えた。その日は、朝方は小雨が降っていたが、一考らが買い物に近くのDIYに出掛ける頃は、晴れ間が広がっていた。
 それは、そのDIYから帰る途中での出来事だった。言うまでもないことだが、運転は雅子が担当していた。生来の、運動神経の無さ、不器用さから、一考は運転を得意としておらず左手が多少不自由であっても、二十年以上も運転実績のある雅子を信頼して、いつものように助手席で雅子の運転に身を委ねていた。
 その時走っていたのは、国道などの交通量の多い大通りではなく、JRの高架下に沿った裏の側道で、車の通りも比較的少なく、一考は特に気を配ることなく、いつもの通りのんびりした気分で助手席にいた。やがて、車は、もう直ぐ自宅という辺りにあるちょっとした登り坂のS字カーブに差し掛かっていた。何気なくバックミラーに目を遣っていた一考の目には、後ろから接近して来る車を捉えていた。少し気分を引き締めて、運転している妻の方に目を移した時だった。
 雅子のハンドル操作が乱れたのである、それは想定外のことだった。彼女の慣れた運転技術では考えられないもたつきだった。切り返しのハンドル操作が遅れて、危うくガードレールにぶつかりそうになったのである。「まずい」と思った瞬間、意外にも、運動神経の鈍い一考が、咄嗟に助手席から手を伸ばして、ハンドルを鷲づかみにして、大きく右に切ったのである。車は、幸い、際どく、そのガードレールに接触することなく、うまくすり抜け事なきを得た。瞬間、一考は、背中に水をぶっかけられたようなヒヤッとしたものを感じたが、何事もなかったことで、ほっとして一息ついたのだった。
こ の時、一考は、はからずも、雅子の左手の指の病状が思ったよりも悪化していることを知った。また、大事に至らずに、こういう形でその危険性を教えてくれた神に、一考は心から感謝するのだった。(以下、明日に続く)

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努力は裏切らない。大輔銀メダル

 世界フィギュアスケート男子シングルで高橋大輔が銀メダルを獲得し、日本のフィギュアスケートの歴史を塗り替えた。同氏の好きな言葉が「努力は裏切らない」というそうだが、大変な努力の成果が発揮された結果であり、その瞬間、思わず涙した心境が伝わってきて、筆者も思わず熱くなった。
 この「裏切らない」と云う言葉で、いくつかの著名人の事例を思い出す。将棋の森下卓九段が「駒得は裏切らない」と序盤での指し方の基準の一つにしているのは、この世界での定石として有名だ。
 一方「時間は夢を裏切らない。夢も時間を裏切ってはならない」(松本零士)「夢は時間を裏切らない。時間も夢を決して裏切らない」(牧原敬之)の二人の間で争われている盗作騒動は目下話題沸騰中で、論争が続いている。我々を「裏切らない」結論を出して欲しい。
 それに対し、我々の期待を「裏切った」のが、昨日休会に入った六カ国協議での、北朝鮮の「裏切り」で、それは、いつものことなのだが、米国までが日本を「裏切って」の変心には、許せないものを覚えている。久し振りに「なんたるちあ」の心境だ。

連載(62) 難病との闘い 第三章 病魔が牙を剥き始めるまで(23)

 一考は、この帰郷で、もう一つやっておきたい厄介な仕事があった。それは母親が父から相続した株券の扱いだった。非常に馬鹿げた話だが、母親のような年になると、今の新しいやり方にはついて行けないことが多い。例えば、銀行の通帳記入や、出し入れも、ATMでは出来ないし、やろうとしない。機械を信用していないのだ。株券も、いつも、手元に置いて管理していた。従って、外出するときには、その都度、風呂敷に包んで持ち歩くというリスキーなことをやっていた。いくら、証券会社に保護預かりをしてもらうように説得ても、ああいうところは、悪い人がいて、いつ騙されるか分からないからといって受け入れない。
父が亡くなった時にも、その名義変更手続きで、一旦、証券会社に預けねばならなかったのだが、その場合でさえも、それを嫌って手間を焼かせたことがあった。とにかく、コンピューター時代には、ついてゆけない人種なのだ。こんな姑に付き合ってきていた、雅子の忍耐強さには頭が下がるのだが、そんな忍耐の積み重ねが、仇になったのではと考えることもある。
 さて、その株券だが、近い将来(2009年)に、電子化される動きがあって、証券会社にそれを依頼する期限が年末までだということが分かり、そのための必要な対応をこの機会にやってしまいたいと考えていた。先ずは、証券会社に保護預かりを納得させる必要があったのだが、社会システムへの不信は、一筋縄ではなく、常識では考えられないものがあって、思うようには捗らなかった。おまけに、耳が遠いから大きな声で話さなければならず、他人が聞けば、大変な喧嘩をしているようで、説明する自分が嫌になってくるのだった。それでも、何とかなだめすかせて、その手続きに同意させたのだが、大変なエネルギーの消耗で、一考も疲れ切ってしまう按配だった。
 この作業を通じて、一考は、証券会社に預けた株は、「ほふり」に預託されることを初めて知った。てっきり、証券会社が保管しているものと理解していたからだ。
 翌日、全財産の大半をN証券に預けたことで不安そうな母親の顔を見て、思わず、心配になって、「ほふり」について再確認するといった馬鹿げたことをしてしまった。自分も、母親と変わらないではないかと自嘲気味に一人笑いしたのである。何事もこんな具合で、年老いた母親の面倒を見るのは手が焼けるのだ。雅子の苦労を改めて認識した次第である(以下、明日に続く) 

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渡辺竜王、ボナンザに快勝

 昨日、将棋界では歴史的な対局が実現し、インターネットで中継された。今年度の将棋ソフト大会で優勝した最強ソフト「ボナンザ」と渡辺竜王が平手で対局した。チェスでは既にコンピューターが人間の上を行っているが、将棋ではまだまだ力の差があるといわれていた。しかし、このところ、将棋のソフトの開発も進んでいて、果たしてどんな結果になるか、興味を持ってインターネットで観戦していた。専門家の見方でも、一時はボナンザが有利な局面も出現していたようだったが、終盤戦で渡辺が、コンピューターの読みを上回っての好手を指して押し切り、プロの面目を保った。112手での見事な勝利だった。それぞれ2時間の持ち時間での対局だったが、残り時間は、ボナンザが5分、渡辺竜王が49分という結果だった。竜王の方が短時間の消費であった点も見逃せない。
 何しろ、一秒間に400万局面を読む能力があるとされていて、平常心が保たれるコンピューターに対し、人間にはプレッシャーなどでの心理的なマイナス面が懸念されていたが、それらは幸い杞憂に終わった。しかし、いずれ、コンピューターが勝つ日も、そう遠くではないとのコメントもあった。この頭脳と頭脳の戦いには、これからも興味が尽きない。

連載(61) 難病との戦い 第三章 病魔が牙を剥き始めるまで(22)

 それは頭の痛い問題だった。久子は、理屈抜きで間もなくやって来る冬対策として、部分的改築であっても速やかな対策が必要と主張し、既に大工と相談を始めていた。この辺りは、久子が主導権を握っていて、近くにいない長男は蚊帳の外だった。一考が不満をいうと、勝手に家を離れている長男には、そんなことをいう権利はないと言わんばかりの口調で自分の考え方を押し付けて譲らない。
「隙間風なんて、コーキング材を埋めれば対応できるじゃないか」といっても、そんなのは臭いが強くて母が大変だという。硬化するまでの臭いであって、一時的なものだが、久子には許せないようだ。
 とにかく、ああいえば、こういうタイプで扱い難い。母親の面倒を見るために生きているというだけに、言い出したら聞かないタイプなのだ。
 一考の頭の中には、今の、雅子の病気のことを考えると、自分達の今の二階中心の生活は早晩、変えなければならないだろうし、その機会でのリフォーム若しくは改築を念頭に置いていただけに、個別のつぎはぎ的な工事は、経費の無駄になるから、なるだけ避けたかった。
 埒が明かず、取りあえず、大工さんに見積りを出してもらってから考えることにした。しかし、一考も、母親がそうしたいというなら、母親がお金を出すわけだから、それを否定する理由はない。結局は、久子のやりたいようにやれということで妥協した。その日の、一考の日記には「自分なら 改築せずとも 暮らせます」とのメモがあった。(以下、明日に続く)

タグ : 渡辺竜王 ボナンザ

温かい配慮と複雑な心境

 昨日、元勤務していた会社から社内報がインターネットでOB達にも送られてきた。その中に、筆者が投稿した、自作「執念」のPRを目的に書いた近況報告が掲載されていました。押し付けがましく、厚かましい投稿にも関わらず、また、内容的にも掲載に「?」が付きかねないにも関わらず、温かいご配慮で掲載を決断された総務部長を始めとする編集に携われた関係者の皆様に厚く御礼を申し上げます。社長を始めとする皆様の太っ腹さを垣間見させて頂き、改めて感激した次第です。
 さて、そんな心温まる話の一方で、業界の一方の雄である「信越化学」の直江津工場での火事の報には、複雑な心境でその成り行きを見ていた。いつも、追いつけ追い越せの目標だった相手であるだけに、気の毒と思うと同時に、今後とも、業界の拡大を目指して相互に切磋琢磨して頑張って欲しいものだ。
 複雑な心境といえば。インフルエンザの薬である「タミフル」です。新たに二人の犠牲者が出て、この薬の取り扱い方が注目されている。厚労省は深夜に会見を開いてその対応を報告したという。薬には大なり小なり副作用があるものだと思うが、死を誘うような危険があると、単純に薬とは言い難いような気もする。我が妻も、パーキンソン症候群病のため、毎日毎日、数多くのお薬を服用しているだけに、その副作用には神経質にならざるを得ない。
 安全には幾ら注意してもし過ぎることはない今日この頃である。

連載(60) 難病との闘い 第三章 病魔が牙を剥き始めるまで(21)

 帰国した二日目の2004年10月23日の夕方、新潟で大地震が発生した。震度6で、東京でもかなり揺れて、一考は、思わず部屋の中の本箱を支えたくらいだった。テレビは全局で地震の報道に切り替えられた。
 ドラマティックだったのは、行方不明だった家族三人の乗った車が、二日後にトンネル手前の流されて岩石の中で発見された。翌日の午後になって生存者がいることが判明、危険な余震が繰り返される中で、息詰まる救出作戦が全国民が見守る中で展開された。結果は、明と暗の複雑なものだったが、、僅か二歳の子供が92時間を堪えて生存していたという感動は、一考の胸も熱くさせた。
 一考は、この種の事故、事件でいつも思うことである。それは、何故、その時間に、その人たちが、そこにいたかということである。そのタイミング、場所が、少しでもずれていたならとの思いが心にまつわり付く。つまり、その時間に、その車が、そこを走っていたという事実に、一期一会の不幸版を見るようで、人の運命の綾の微妙さを思うのである。それは、恰も、1000人に一人と云う難病に、何故、神様が雅子を選んだのかという謎と相通じるものがある。まさに人生の綾の不可思議さに、一考は考え込んでしまうのだ。
 この頃、大津の実家では、老朽化した家の部分的な改修を久子が推し進めようとしていた、縁側のガラス戸がきちんと締まらず、隙間風が冷たく、母に良くないというのがその理由だった。
 建築してもう半世紀を迎えるという時代物だから止むを得ない訳だが、一考は、今更、つぎはぎ的なパッチワーク工事では無駄遣いになってしまうのではないか。やるなら、思い切って全部建て替えるべきと考えていた。
 しかし、例によって、母思いの久子は、そんな先行きのことを考えるよりも、目先の冬対策という具体的な対応に執着し、速やかな対応を考えていた。その一方で、その縁側で使われている八枚揃った一枚ガラスのガラス戸は、今でも然るべき価値があるもので、それを棄ててしまう久子のやり方に、長女の綾子が「反対している」と雅子が伝えてきていて、長男として、帰って来て、きちんと仕切って欲しいというのだった。ややこしい話で気が進まなかったが、一考は、取りあえず、帰ることにした。(以下、明日に続く)

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北朝鮮ペース

 六カ国会議が再開された。冒頭から米国の大幅な妥協で進んでいる、新聞各紙も北朝鮮ペースということで論じていて、日本の立場が厳しくなりそうだとの見方である。この流れはが、若しかしたら、前に多くの人の批判を浴びて今年1月に訪朝した山崎拓氏が暗示して変化なのだろうかと思ってみたりする。何年か経って、やっぱり騙されたということにならないことを祈っている一人である。
 いずれにしても、戦いではペースを掴むことは大事なことで、戦い全体の勝敗を支配することになることが多い。そのためには、緻密な戦略、戦術、根回しなどは欠かせない。
 ペースを掴むという点では、スポーツの世界では特に大事で、これから始まる米大リーグでの松阪大輔井川慶などの新参組は、うまくペースを掴んでシーズンに入って行って欲しいと思う。今日から始まるフィギュアスケートの浅田真央ちゃんもしかりである。金メダルを期待している。

連載(59) 難病との闘い 第三章 病魔が牙を剥き始めるまで(20)

 注目の第17期竜王戦第一局は、翌日9時から、ソールの新羅ホテルの一室で始まった。一考、雅子らの観戦者は、先に対局室に入って、両棋士の入場を待った。やがて入場してきた二人は、ゆっくりとしたペースで駒を並べる。定刻になると恒例の振り駒が行なわれ、渡辺五段が先手と決まった。渡辺五段は、少し息を整えるように間をおいて、角道を空ける歩を突いた。
 そこまでの出だしを見届けると、一考と雅子は、静かに退室し、少し、NHKの衛星放送の生中継を覗いてから、冬のソナタのツアーに合流した。いくつかのロケ場所を回ったが、一考の記憶には定かな名前は残っていない。雅子はこちらがメインだったことで、大変楽しそうだった。
 三日目の21日も朝も、二日目の対局室で封じ手開封を見て、妻への償いの意味で「冬のソナタ」の春川旅行やソウル市内観光に付き合った。市内観光で王宮を訪ねた際に、多くの建物が日本軍によって破壊されたとのガイドがぽつりと私にこぼした言葉に、複雑な気持ちになった。韓国民の日本軍に対する悪感情がこんな形で示されたことに、結構、根深いものがあると思った。
 対局は意外に早い森内竜王の投了で、渡辺明五段が幸先いい一勝を挙げ、将棋界に新しい時代を予感させた。
 翌日、22日は、朝早くホテルをチェックアウトし、空港でお土産を買うなどして時間を調整し、昼過ぎには無事成田に戻った
 途中、二日目の市内観光の休憩時に、雅子が、お手洗いに行った際、指の小細工が利かないため、スラックスのファスナーの上のボタンを意識的に止めずに置いたのだが、それに気づいたガイドさんが、止めてくれるという「ありがた親切」を受けた。信号をやっと渡リ切ったおばあさんがうろうろしているのを見て、これから渡ろうとしていると勘違いして、親切にもう一度連れて渡ってやったような「ありがた親切」だった。
 しかし、それ以外は、雅子の左手の不自由に関しては、これといった大きなトラブルもなく、全ツアー日程を消化でき、久し振りの海外を楽しんだ。成田に向かう飛行機の中で、雅子は、恰も御伽噺の国にいるような楽しい気分になっていた。そして、この厄介な病気が、このまま何処かへ、ツアーして飛んで行ってくれればと、密かに願っている自分に気がついて、慌てて隣にいる夫の顔に視線を遣って現実に戻った。(以下、明日に続く) 

タグ : 北朝鮮 山崎拓 松阪大輔 井川慶 浅田真央 新羅ホテル 渡辺明

金塊強奪

 昨日、岐阜県の高山市で白昼、金塊、100Kg、2億円相当が4人組みに奪われる事件が起きた。西洋映画などで見られる豪快な事件である。
 最近は、鉄骨などの鉄製品の盗難が横行していたが、これはちと様子が違う犯罪だ。犯人達が、どのようにこれを処分するのか、そこに興味がある。下手すれば即、逮捕となる訳だから。
 奪われるというと、最近は自由時間がなくなっていて、毎日が多忙である。介護に明け暮れる日々だが、妻へのつぐないであり、疲れもあるが、充実感もある。
 昨日、西大津のジャスコ内にある旭屋書店を覗いたら、遅れていた「執念」が入荷されて、平積みでどんと置いてもらっていた。そこに、お願いしておいて「大津市二本松在住の相坂一考」とのビラもつけていただいていた。店長に感謝いっぱいだが、町内にPR回覧してもらって、大分経っているので、この平積みの高さが低くなってゆくのかが心配である。大津市の皆様のご協力に期待している。

連載(58) 難病との闘い 第三章 病魔が牙を剥き始めるまで(19)

 翌朝、二人は早めに杉並にあるマンションを出て成田に向かった。一考は、いつもの通り、中型の旅行鞄と機内持ち込み用のビジネス鞄の出で立ちだった。雅子の荷物の大半は一考の鞄の中に押し込み、雅子は、ハンドバッグだけの軽装にし、片手で対応できるように工夫していた。左手で重い荷物を持つことは難しい状況になっていたからである。
 ツアーグループは、20人程度のもので、やはり、将棋界に関係のある棋士のご親戚の方などが多かった。あまり記憶には残っていなかったが、10年前のパリツアーのメンバーも数人おられた。
 11時30分発のソウル行きアジアン航空105便で、予定より少し遅れて到着。穏やかな飛行だった。機中での雅子の対応で、トイレなどの心配があったが、飛行時間が短いことから、特に困ったこともなく順調だった。食事や飲み物サービスでは、一考がサポートすることで問題はなかった。
 ホテル新羅は立派なホテルだった。チェックイン後シャワーを浴びて、6時から前夜祭が始まった。
 前夜祭は我々ツアー客も参加しての和気藹々のパーティで、私の贔屓の渡辺明五段挑戦者を始め、多くの棋士と直に会話を楽しんだ。中でも、挑戦者の渡辺五段には積極的に話しかけ、雅子を入れて記念撮影をもお願いした。若干二十の大型新鋭で、実に気さくなところが魅力だった。既に、結婚していて子供もいるというが、本人が子供っぽいところがあって、父親には見えないあどけなさが残っていた。また、衛星放送の聞き手役の中倉宏美女流とも親しく言葉を交わし、一緒に写真撮影もお願いした。中倉さんはNHKで将棋講座を担当されていたので、その収録時などのエピソードなどを聞かせてもらった。もともと、一考は、この宏美さんのお姉さんの中倉彰子の大のファンだったが、この歓談で妹さんの宏美さんにも好感を抱いてファンになった。(宏美さんは、今、NHK将棋トーナメントの利き手を担当中)ツアー客の中に、木村14世名人の娘さんや花村九段の奥さんもいて、将棋界の昔話を語り合った。
 かくして、ロスタイムだと思っていた余分の人生に、思わぬ味付けが出来て、気分は上々だった。(以下、明日に続く)

タグ : 執念 渡辺明 中倉宏美 中倉彰子

世界不思議発見

 日本テレビの人気番組「世界不思議発見」が1000回を越えた。21年も続いている長寿番組だ。昨夜はその特番が3時間に渡って放映された。世界各国の名所、遺跡、秘境、歴史、文化を教えてくれる素晴らしい番組で、筆者の好きな番組だ。登場するミステリーハンターと呼ばれる探検者の度胸は大したものだといつも感心させられる。
 この番組には忘れられない思い出がある。2000年の11月4日のことだった。ちょうど、米大リーグが来日していて、その中継が入っていたため、その日は30分遅れでの放送だった。番組が終わった10時半頃、その日少し体調を壊していた親父の様子を確認しておこうと、母屋に顔を出した直後だった。親父が急に今までにない苦しみを訴えたのである。慌てて、傍にいる母親と介抱に当たったが、まもなく帰らぬ人となった。人の死の瞬間に居合わせた訳で、今でもその記憶は生々しく残っている。
 若し、その時、この番組が通常通り放映されていたら、恐らく、父の死のその瞬間に立ち会うことはなかったと思うと、何故か、この番組の存在を強く意識する。
 いずれにしても、そんな思いでもあって、愛する番組の一つなのだが、昨夜はその記念特番で、その回答者の中に坂東英二氏と組んだ「和希沙也」が出演していて、見事優勝を果たした。筆者はこの「和希沙也」に好感を持っている一人である。何故なら、彼女は滋賀県出身の数少ないタレントで、「滋賀県出身」ということを堂々と宣言していることである。とかく、滋賀県という田舎イメージ(実際はそうではないと思っているが)を隠したがる人が多い中で、立派な姿勢であると思うからである。

連載(57) 難病との闘い 第三章 病魔が牙を剥き始めるまで(18)

 この頃は、世界でも、日本でも大きな話題で燃えていた。
 一つが、拉致家族のジェンキンス氏が日本に居残ることを決意し、自分の犯した脱走の罪を認めて座間基地に出頭した。日本に到着した時の病弱そうな姿とは違って、元気な姿での出頭だった。家族も一緒で、新しいドラマが始まった。米軍は人道に配慮して手厚いもてなしで迎えた。9月11日のことである。
 もう一つが、米大リーグのイチローの話である。結果的には、イチローが年間安打数で新記録を達成するシーズンになるのだが、9月の秒読み段階で不振が続き、ヒットを打つのに四苦八苦している日が続いていた。9月12日はヒットなし。あれほどバットを軽業師のように扱っていたのが嘘のよう。大記録を前にしての最後の大きな壁にぶつかっていた。翌日の9月13日にやっと2本のヒットを打って、あと残り20試合で26本と迫るのだが、果たして、どうなるか? 世界が注目していた。
 そして、10月2日、遂にイチローがシスラーが1820年に打ち立てた記録、257本を破る新記録を達成した。記録は破られるためにあると言いながら、この記録は86年ぶりという歴史的なものだった。最終的には、イチローはこの年、262本のヒットを記録した。
 加えて、日本の野球も、この年から始まったパリーグのポストシーズンが、日本ハムの活躍で結構面白く、暇つぶしには格好の話題だった。
そのような派手な話題を楽しんでいたこともあって、一考も、気にはしていたが、雅子からの連絡もなかったことから、症状の悪化はそれほどでもないのだろうと勝手に決め付けていた。いずれ、韓国ツアーで数日を共に出来るという気安さがあったからでもある。 
 楽しみにしていた韓国ツアーは、ツアーのメインイベントである竜王戦の挑戦者が、期待の新星、渡辺明五段の初挑戦に決まった。その渡辺五段は、将棋界では十年に一人登場するといわれる大物の一人で、大山、中原、谷川、羽生に次ぐ逸材として小学生のころから嘱望されていた期待の棋士なのだ。二十歳の若さだったが、既に一人の子供の父親でもある。じわじわと盛り上がるムードの中で、その旅立ちの日は、静かに迫って来ていた。
 出発の前日である10月17日に上京して来た雅子を見て、一考は、それまでののんびりしていた気分を引き締めなければならなかった。バッグを持つ雅子の手が痛々しかったからである。その日のメモに「痛々しい 妻の手つきに 胸痛む」と記していた。思いのほか、痛々しさが目だっていたのである。
 なお、出発前の保険手続きで旅行会社から指摘されたのだが、雅子の左手がパーキンソン病で少し不自由ということで、通常の保険に加入できず、障害者扱いに変更させられた。一考は、そのことでも、雅子も病気についての認識を新たにしたのであった。(以下、明日に続く)

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天下りあっせん禁止

 久し振りにすかっとする話として、渡辺善美行革大臣が推し進めている天下り規制だ。「各省のあっせんをやめて新人材バンクを作るというものだ。これに安倍総理が強く指示したことが報ぜられていて、次の「一手」が注目されている。
 次の「一手」と言えば、将棋界の話になるが、3月は年度末で、棋士の給料の基準になる順位戦が、昨日で平成18年度の全日程を終了した。これらは、全てインターネットで中継されていて、筆者はそれを楽しみにしている一人である。この順位戦の成績で、5階級(A,B1,B2,C1,C2)あるクラスの入れ替えが行なわれる訳だが、そこには、人生の悲喜こもごもの感動するドラマが毎年展開されている。
 今年の特筆すべきエピソードは、A級リーグで優勝し、4月から始まる名人戦の挑戦者になった郷田真隆九段の微妙な「一手」だった。
 それは12月5日に行なわれた久保利明八段との対局で、問題の一手は、126手目の郷田九段の指した手で起きた。時間に追われた郷田九段が、盤上の「桂馬」を「5七」に成る際に、駒を掴み損ねてもたもたした。一瞬、時間が切れたのではと思われたようだったが、対局はそのまま続けられ、それから60手近くが過ぎた182手目の投了の目前になった時点で、久保八段が、立会いの記録係に「あの時の一手は時間切れでは」とアピールしたのである。
 インターネットで見ていた筆者は、久保八段が投了するものと思っていたのだが、なかなかそれが伝えられず、速報のコメントには、久保八段がアピールしていて投了を告げておらず、将棋連盟の裁定を待つというコメントが伝えられた。「それはないだろう。終局間際になってのアピールは」と郷田ファンの筆者は、反発のコメントを入力して送った。 さて、誰が、どんな裁定をするのかといらいらしながら待つこと一時間あまり「差し手を遡ってのアピールは無効」という中原将棋連盟の副会長の裁定で、そのまま郷田九段の勝ちとなった。
 若し、その時、時間切れであったと裁定されていたら、郷田九段の挑戦者はなかったかも知れない。久保八段もその時点では成績が悪く、降級が懸念されていただけに、そのまま投げ切れなかったのだろう。いずれにしても、実に、微妙な一手だった。なお、久保八段は、その後奮起して連勝し、A級を守ったのは立派だった。

連載(56) 難病との闘い 第三章 病魔が牙を剥くまで(17)

 この頃の、一考は、いわゆる二つの「W」に燃えていた。歩く(WALK)は丁度、長距離歩行の挑戦も丸一年を迎え、先の琵琶湖コースを含めて14本目を終えていた。都内のかなりの道を制覇していた。また、時間を見つけては歩き回っていた坂道探索も、その数は、何と550を超えていて、インターネットで報告しておられる方の実績に迫っていた。持ち歩いていた都内地図も、十分な働きをし尽くして元を取った感じで、少しほころびを見せるような値打ち物になっていた。
 執筆(WRITE)の方も、「執念」にほぼ見通しがつき、手直しを行なう段階に入っていたし、その前に書き上げた「なんたるちあ」についても、別の投稿先を探して、それ用に手を加えたりしていた。
 その一方で、夏の甲子園、そして、アテネオリンピックも佳境で、テレビ視聴でも楽しみな日々が続いていた。オリンピックでは、二年前に、自分が試走したあの変形の400メートルのグランドには、強い関心を持って見守っていた。特に女子マラソンの野口みずき選手が、トップでそのグランドに入って来て、金メダルを獲得した時には、感激も一入だった。
 そんなことで、その頃は、充実感に満ちた日々を送っていて、妻の症状の変化については、何か言って来ない限り、それほど気にすることはなかった。なるようにしかならないという、開き直った気持ちになっていたからでもあった。
 そんなお祭りも終わると急に秋が来たように感じられ、自分にも心機一転を言い聞かせて、「執念」の推敲を重ねた。一旦、書き上げたものを読み直すほど退屈な作業はない。誰かが、何かに書いていたが、「作品」は自分の排泄物のようなもので、読み直す作業はやりたくないと書いていたのを思い出す。そんな中で、応募対象の狙いを、おこがましくも、でっかく11月末締め切りの「松本清張賞」と密かに決めていた。(以下、明日に続く)

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またまた隠蔽

 北陸電力での原子力発電での臨界事故、アマチュア選手への西武球団の裏金問題で、悪質な隠蔽工作が発覚した。「またか」といったあきれた受け取り方にも諦めすらある。
 隠蔽は人間に備わっている本能的な性格の一つだとも考えられる。例えば、道を歩いていて、何かの拍子に転んだと場合、素早く辺りを見回して、誰もいないとほっとして立ち上がり、何も無かったように装う。これは人間の本能的な性格だ。自分に不利なものには蓋をしようとする訳だが、それが、危険を伴わず、他人に迷惑を掛けない、或いはルールを侵していない場合は、笑い話で済む。
 世の中にはこの種のことが蔓延しているようだ。発覚すると、トップずらりと並んで頭を下げてお詫びする風景に繋がり、我々は何回となくそれを見せられて来ている。最近では、入社試験でお詫びする姿勢をチェックすることが、企業人のは必須チェックポイントになっているのではという冗談すら言ってみたくなる。
 ただ、個人的には、裏金問題で名前が明らかになった、東京ガスの木村早稲田の清水の両選手には、家庭の事情などを考えると同情を禁じえず、今一度のチャンスを与えてあげて欲しいと思っている。

連載(55) 難病との闘い 第三章 病魔が牙を剥き始めるまで(16)

 次男に女の子が生まれたのは2004年6月4日のことだった。嫁の実家の横浜での誕生だった。予定より数日早かったが、母子ともに健在という連絡に、一考や雅子は待ちに待った初孫の誕生を喜んだ。翌日の5日には、雅子も大津から駆けつけて来て、緊張の初対面、実に赤ちゃんらしい可愛い赤ちゃんだった。見た目には顔も美形である。息子も自分が生んだように、如何にも自慢そうで、嬉しそうだった。
 翌月の7月3日に、かつて一考の借り上げ社宅があった極近くの横浜桜木町の伊勢山皇大神宮で、お宮参りのセルモニーを執り行ったが、その時にも雅子は駆けつけて来た。少し不自由な手だったが、孫を抱いて記念写真撮影をした。孫を抱く際に、左手に少し不自由で、ぎこちない動きで頑張った。
「痛むのかい?」と一考が心配で聞くと「痛くはないんだけど、うまく支えられなくて、落としそうで不安なの」と顔をしかめた。一考は、雅子の症状が少し進んでいると思った。目立たない速度で、病魔が動き出しているように一考は受け取り始めていた。
 二人に、読売旅行社から竜王戦ツアーの案内が届いたのは、8月10日過ぎのことだった。呼び物の一つに、将棋の観戦の合間をぬって、日本で韓流ブームの切っ掛けを作った人気の「冬のソナタ」のロケ地を回るツアーが織り込まれていた。将棋には興味の少ない雅子にも、そのドラマに嵌っていたことから、一考の誘いに直ぐにOKの返事をして来た。丁度、10年前にパリで行なわれた同じ竜王戦ツアーに参加した時の楽しい日々が思い出された。当時は羽生が七冠を目指しての快進撃をしていた頃で、前年に失冠した竜王位の奪還を目指しての佐藤竜王への挑戦だった。
 早いもので、それから10年が経過していた。一考は、自分達の10周年紀念旅行として相応しい企画になると、大いに乗り気になっていた。何しろ、近場の韓国へのツアーだけに、雅子の今の症状なら、自分がサポートすることで充分可能であると考えた。一考の頭の中では、進行性の病気だけに、何とか、今一つ、雅子との海外旅行の思い出を作っておきたいとの思いも強かった。
 この時点での将棋界の七冠は、羽生が四冠、佐藤が一冠、そして、羽生の永遠のライバルの森内が名人と竜王の大きなタイトル二冠を保持していた。その注目の挑戦者を決める予選も順調に進んでいて、注目の期待の新星、二十歳の渡辺明五段が挑戦者決定戦に駒を進めていた。若し、そのまま渡辺明五段が挑戦者になるようだと、それまでの、羽生、森内、佐藤の三強豪に新鋭が割り込んで来ることになり、世代交代に繋がる面白い組み合わせになることは必至で、一考の興味も盛り上っていた。
 一考がツアー参加を読売旅行社に申し入れたのは、8月半ばのことだった。(以下、明日に続く)

タグ : 東京ガスの木村 早稲田の清水 渡辺明五段

ボルトが抜けていた?

 高知空港で、胴体着陸を余儀なくされた全日空機で、前輪が出なかった原因が、前輪の格納庫の扉のボルトが抜け落ちていたということを、今朝の報道で知った。しかも、ボルトのサイズが合っていないという。何たる事と唖然とした。最近は、世の中全体で、肝心なところのボルトが抜けているような気がしないでもない。
 命を預かる仕事では、どんな小さなミスも許されないことを肝に銘じておかねばならない。
 これも、今朝の報道だが、新小岩駅の立ち食いそば店で、昨日の朝に販売したカレーそば、うどんなどの「カレー」の中からねずみの死体が見つかったという。18食売れたそうだが、何とも気持ちが悪い話である。これも、ボルトではないが、細かい管理が抜けていたからであろう。幸い、命には関わりがないというが、立ち食い店をよく利用する筆者だけに、この「カレー」話は、どうもいただけない。
 東国原知事が外人記者クラブでインタビューを受けていて、宮崎を世界にPRしていた。今のところ八面六臂の活躍だが、多忙過ぎて、肝心な「ボルト」が抜けないように頑張って欲しい。

連載(54) 難病との闘い 第三章 病魔が牙を剥き始めるまで(15)

「たまには、こうして、何もせずに、ぼおっとしてるのもいいのじゃない?」床の間を背にして、部屋の真ん中に置かれたテーブルの前に陣取りながら、一考は雅子に問い掛けた。
「せっかく、熱海まで来て、もったいないみたいだけど、疲れているので、いいんじゃない」一考に向き合って座った雅子も手持ち無沙汰である。
「ところで、新しい先生の治療はどうなんだい?」話題が、病気のことになってしまうのは、自然な流れだ。
「取りあえず、今までのお薬での治療をチャラにして、新たな目で見てもらっているの。若しかしたら、パーキンソン病でないかもとも言っておられるんだけど?」
「しかし、手の具合が良くなったという訳じゃないんだろう?」 一考は確かめるように、雅子の様子を窺った。最近は、左手の人差し指が曲がって来ていて融通が利かなくなって来ている。
「それは、そうだけど。気分的には新鮮で、何かが期待できそうな気がするの」
「まあ、そうあってほしいね。いずれにしても、こうして、のんびりしているのは、身体にいいことは確かだ」
「この間の日光といい、いろいろと気遣ってくれて嬉しいわ」
「もう、仕事のことでは、全ての戦いを終えたんだから、もっと君に気を使わなければと思ってるんだ」
「嬉しいけど、まだ、小説には拘っているんでしょう」
「まあ、最後のもがきかもしれないけどね」ちょうど、将来、出版を決意することになる「執念」のプロットで迷っていたタイミングだった。
「その目処がつけば、帰って来てくれるのでしょう?」
「まあね」
 二人は、久し振りに、のんびりとした会話を楽しむのだった。
 結局、翌朝、朝食後に熱海の海岸を散歩、お宮の松辺りをぶらぶらして、東京に戻った。
 その翌日、雅子は、いつものパターンで、早朝にマンションを出て、千葉にいる長男のところへ出掛けて、掃除、洗濯、料理のサービスに努めた。結果的には、これが、雅子が長男のところを訪ねての最後のサービスとなった。その後も、数回は上京はするが、長男宅を訪ねる機会はなかった。次男のところに孫が出来たり、海外旅行などの日程があって、多忙だったのに加え、心配していた雅子の手の具合の悪化が進行し、年末に急遽、一考が東京を撤退しなければならなくなったからである。(以下、明日に続く)

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空と海での悲喜こもごも

 今朝は、この話題を外せない。筆者もこの着陸の様子を生中継で見ていて思わず拍手をした一人だった。生命が掛かっている出来事には、自ずと神に祈る気持ちになってしまう。命拾いをした乗客の気持ちになって着陸の成功を喜んだ次第である。恩人のパイロットの適切な行動が60人の命を救ったのだ。
 命の尊さでは、その日の宇和島で、鯨を救おうとした人に犠牲が出たことには胸が痛んだ。空と、海での悲喜こもごも、世の中は実に非常だ。
 ところで、若しかしたら、この地球と言う飛行体は、人間と言う生物の横暴な生き方で、既に、前輪だけでなく、後輪も出ないような危険な状態になっているのではないかとふと思った次第である。今からでも遅くはない、立派な操縦士達による操縦が求められている。
 全くの別件、ちょうどこのブログを書いている時に、前総理の長男の小泉幸太郎が出ていて、予てから好意を持っていたキャスターの西尾由佳理さんと、ほほえましい会話をしていた。何故か応援して上げたい気持ちになったので、思わず書き加えた次第である。

連載(53) 難病との闘い 第三章 病魔が牙を剥き始めるまで(14)

 雅子からの電話で、彼女の直ぐ上のお兄さんの急逝の訃報を、一考が知ったのは、2004年2月23日の朝のことだった。雅子の5人兄妹の中では、年齢的に最も近かったこともあり、一考は、雅子との結婚直後から親しくさせてもらっていた。お酒が好きで、気さくで、ユーモアに富み、場持ちする明るい方だった。まさか、こんなに急に亡くなられるとは思ってもいなかっただけに、衝撃は小さくなかった。享年65歳というのはあまりにも若すぎた。死因は肝臓癌だったと聞いて、やはり、お酒が絡んでいたことを知って気の毒に思うのだった。後で、雅子から聞いた話だが、彼が入院した直後の正月明けに、兄妹が揃ってお見舞いを済ませていたそうだが、その時点では、こんなに早く亡くなるとは誰も思ってもいなかったという。人の命は分からないものだ。
 一考は、急遽、大津に戻った。通夜は、翌日の24日の夕方、葬儀、告別式は25日の11時から、住まいの近く奈良県の大和西大路のセレミューズ秋篠でしめやかに執り行われた。雅子と連れ立っての参列だった。雅子はかなり気落ちしていたが、手の症状は、左手の人差し指が不自由になっていたが、それほどの大きな支障は出ていなかった。
 2004年に入って、初めての雅子の上京は3月22日からの5日間だった。この時は、珍しく、熱海で待ち合わせて一泊する段取りを組んだ。いつも、通り過ぎるだけの観光地を一度ぐらい訪ねてみるのもいいのではと思ったからである。中ぐらいの大きさのボストンバッグを右手に持って、待ち合わせ時間の12時過ぎに、雅子は熱海駅に姿を見せた。少し先に東京から到着していた一考は、ホームで彼女を迎えた。一見した限りでは、パーキンソン病という難病に巻き込まれているとは、全く窺えない姿だった。
 この日は生憎、風雨が強く、とても三月後半とは思えない寒さだった。二人揃ってのロマンティックな散歩を考えていたが、それどころではなく、直ぐにホテルにチェックインして、そのまま静かに篭城することに変更した。(以下、明日に続く) 

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