プロフィール

相坂一考

Author:相坂一考
滋賀県大津市出身
07年1月に推理小説「執念」を文芸社から出版
14年7月に、難病との戦いを扱った「月の砂漠」を文芸社から出版

このブログは3部構成です。
 1.タイトルへの一言。
 2.独り言コラムで、キーワードから世の動きを捉えようと試みる。
 3.プライベートコーナー
   (2015-06-03に修正) 

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196 森内名人、第18世永世名人称号獲得

 4月から丸三ヶ月間に渡って戦われていた第65期将棋名人戦は、森内俊之名人が、挑戦者の郷田真隆九段をフルセットの末に破って防衛に成功し、通算、5期名人を獲得したことで、第18世永世名人の称号を獲得した。
 3-3で迎えた最終局も息詰まる大熱戦で、最後の最後まで予断を許さず、勝利の女神も、幾度も揺らめいたが、最後は森内名人に微笑んだ。第6局が世紀の大逆転で郷田真隆九段が勝って最終局に持ち込んだだけに、その勢いで郷田九段が頑張るのではと期待していたが、一歩、及ばなかったようだ。郷田ファンの筆者は、この二日間、インターネットとにらめっこではらはらしながら見守っていて、無念の敗戦にかっくりと疲れてしまった。ファンも大変なのだ。
 何しろ、抜群の実績を残している羽生善治3冠が、三年前に、十八世永世名人に後一歩まで迫っていただけに、郷田九段に勝ってもらって、羽生3冠にもう一度チャンスを与えたかったのだが、神はそのような配慮をしなかったことになる。現実は、それほどドラマティックには展開しないものだ。とにかく、「森内第十八世永世名人獲得おめでとう」と申し上げておきたい。郷田さんは、既に始まっている66期リーグ予選で、再挑戦を目指して欲しい。
 ところで、国会の方も、昨夜は遅くまで熱戦(?)が展開されたようで、今朝の三時まで掛かって社保庁、年金法公務員法の三法案が成立した。定番の強行採決のオンパレードだが、どちらもどちらだと思う。どちらにも「そこまでやるか」といってやりたい。

連載(161) 難病との闘い 第六章 機能喪失の一部始終(18)

(9)トイレ
 手足の動きが不自由になってくると、日常生活での支障は、加速度的にどんどんと増え始めた。それが、遂に、トイレにまで及んでくると、雅子はそれまでにない精神的な苦痛を覚え始めていた。
 トイレにゆく作業を、介護の面からステップごとに分類すると、四つのステップに分けられる。一つがトイレへ往復する「歩行」に関する作業、二つ目が衣服の上げ下げ、三つ目が用を足す作業、四つ目が、その後始末の「拭く」または「洗浄」する作業である。
 「歩行」が困難になったのは捻挫、手首骨折の直後からで、それでも、リフォームを終えた7月頃までは、手を取って「とんとんとん」と声を掛けてやることで、よちよち歩きは出来ていたが、その後、症状は更に悪化、この病気の特徴である、障害物や段差の前での竦み(すくみ)が目立ち始め、8月以降は、ヨチヨチ歩きも難しくなって来ていた。しかし、室内でのトイレまでといった短い距離だったから、何とか、手を引いて移動するようにしていた。
 二つ目の下着の上げ下げについては、お箸が持てなくなり、コーヒーカップが握れなくなった頃より難しくなり、7月末には、一考が初めて手助けをした。具体的には、握り棒を握らせて、雅子を立たせておいて、下着を上げ下げするサポートである。結構、疲れる作業だ。第三ステップの用を足すのは、便座に座らせてやると、自分で何とかできるので、特に何もすることはない。しかし、症状の悪化で、大腸の蠕動運動が弱まってきていることもあって、本人の苦労は大変なようだ。最後の第四ステップの後始末なのだが、暫くは何とか自分でやっていたが、遂に、11月末になって、便座から立ち上がれなくなり、急遽、ウオシュレットへの切り替え工事を行なった。幸い、このリモコンスイッチは、その押すボタンが比較的大きかったことで、暫くは、雅子でも自分で何とか操作が出来た。
 いずれにしても、トイレまでが自分でままならないのは、雅子にとっては、屈辱的で、辛い辛いことである。(以下、明日に続く)
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タグ : 森内俊之 郷田真隆 羽生善治 第十八世永世名人 年金法 公務員法 社保庁法

195 宮沢喜一と小沢一郎

 第78代内閣総理大臣だった宮沢喜一さんが、昨日亡くなられた。総理に選ばれる際に、あの若造だった小沢一郎が面接して総裁に選んだという経緯が思い出される。若い後輩の小沢が、大先輩を呼びつけて面接するというあのシーンは今も、筆者の脳裏にこびり付いている。
 そして、そのおよそ2年後に、野党から出された内閣不信任案に、賛成に回ったのも小沢一郎らのグループだった。小沢って一体どういう政治家なのか、未だに馴染めないでいる。今朝の日経で、その小沢氏のコメントが出ていて「政界の重鎮を失った大きさを噛み締めている」とか「本当に尊敬し信頼できる方だった」とあるが、セレモニー用の空々しいもので、小沢氏への嫌悪感をより深くした。
 昨年の4月に、一ヶ月に渡って、日経の「私の履歴書」に同氏の半生が掲載されたが、その最終回の最後に「一片の氷心 玉壷に在り」という唐詩選の詩を紹介し、「自分もこんな澄み切った心境でいたい」と結んでおられた。今朝、その切抜きに改めて目を通して、同氏の心境に接せられたような気分になった。ご冥福をお祈りしたい。

連載(160) 難病との闘い 第六章 機能喪失の一部始終(17)
 
 スイッチの場合も同様で、オン、オフがうまくマネージできない。リモコンに比べて、少し力を入れて押さねばならないだけに、雅子にはより一層容易ではなかった。電気歯ブラシのスイッチが押せなくなったのが具体的な支障の始まりで、各部屋の電灯、全ての電気器具のスイッチが押せなくなったのである。
 かくして、自分では何も出来ず、全てが、他力本願の人生にならざるを得ず、我慢、我慢の人生に甘んじなければならなくなった。
 そんな中で、一考が腐心したのは、二人の緊急時の連絡の取り方だった。必要な時に、きちんと連絡がつけられるツールを探すことだった。それと云うのも、雅子は、一階のリビングと寝室が主たる居場所であるのに対し、一考は、介護を必要としない時間帯は、パソコンの置いてある2階の部屋にいることが多かったからである。
 しかし、なかなか適当なツールや方法が見つからなかった。何しろ、リモコンのスイッチが押せないからだ。市販されているツールや介護用品の中には、いろんなボタン式の無線連絡の機器があるが、雅子が使えそうなものは限られるのである。
 とにかく、ボタンが大き目で、そのリモコン自体を、雅子が座っている位置から手の届く範囲に固定して置かないと、ボタンが押せないのである。従って、首に掛けたようなものは便利だが、雅子には使えない。そんなことで、有りそうでいて、なかなか適当なのが見つからなかった。
 苦肉の策として、一時は、笛を吹いて知らせるとか、楽器のようなものが使えないかとテストをしたが、笛は吐く息が弱すぎるために適当でなく、楽器もそれに相応しいものはなかった。困り果てて、防犯ベルを使うことも考えたが、これは一旦音が出ると、今の雅子の状態では、音を止めることは出来ず、近所に迷惑になるということで、これも実用には供さなかった。
 そして辿りついたのが、介護用品の中に、ボタンが大きいスイッチのついた無線のブザーが見つかった。11月末のことである。2セット購入し、一つをリビングの雅子の椅子の直ぐ前に、もう一つを、トイレの座る前にセットして、このボタンを押すことで連絡を取るようになった。しかし、この大きなボタンも、2007年3月末頃には、押せなくなってくるのだった。一考には、新たなツールの探索が急務となった。(以下、明日に続く)

タグ : 宮沢喜一 小沢一郎 唐詩選

194 76歳の夫が難病の妻を介護

 昨夜、午後八時からNHK教育テレビで、福祉ネットワーク、介護百人一首とタイトルで、介護に関する短歌の応募作品から入選作品を取り上げていた。その中で、パーキンソン病の妻を持つ夫の介護の作品にフォーカスし、その実際の生活ぶりを紹介していた。
 福岡県春日市に住む、蓑原壽満男さん(76歳)とトシエさん(73歳)のご夫婦で、6年前に発症した妻のトシエさんの介護に、3年前から取り組んでいるという。年齢はちょうど10歳年上だが、タイミング的には、筆者のケースとほぼ同じである。
 入選作品は、「病む妻の 寝息確かめ ぬるめの湯 演歌一節 一日終わる」「デパートの 食品売り場に佇みて 病の妻の 好物知らず」「愛なくて 介護は出来ぬものなれど 言葉にならぬ 愛していると」といったもので、自分でも「なるほど」と納得するものだった。
 実生活では、介護の専門の方にお世話にならずに、夫自らが頑張って介護しておられる姿に、思わず自分達の日々を重ね合わせ、感慨深いものだった。トシエさんの症状は、手を引いてもらってまだ歩ける点で、雅子の方が少し悪化が進行しているようだが、お風呂、料理、食事などの対応をみていると、その苦労は実感できるだけに、同病、相憐れむといった心境だった。
 いずれにしても、10歳も年上のお二人が、こうして頑張っておられるという意味で、大きな勇気をもらった気がしている。我々も、しっかりと頑張ってゆきたい。

連載(159) 難病との闘い 第六章 機能喪失の一部始終(16)

 (8) リモコン、スイッチ
 現代はリモコン万能の時代と言っていいほどリモコンが氾濫している。押すという簡単な作業で、いろんなことが出来る。テレビ、電話、エアコン、電子レンジ、洗濯機、扇風機、トイレなどあらゆる電気、電子機器がリモコンで操作する仕組みになっている。中でもテレビは、デジタルの時代に入って、双方向のやり取りが可能になっていて、リモコンの役割も、一歩進んだ形になって来ている。
 因みに、このリモコンには、シリコーンゴムが使用されている。これは、筆者がかつて勤務していた会社などが、製造販売しているシリコーン素材だけに、その拡大は、会社にとっては歓迎すべき方向であって、ご同慶の至りである。
 それはさて置き、悲しいことに、雅子は、その便利なリモコンを使えなくなって来ていた。何故なら、それをうまく握ることができず、ボタンをうまくプッシュできなくなっていたのである。これは、今のリモコン万能の世の中では、恰も、生きる術を奪われたようなもので、失望感も強く、寂しく悲しい症状だった。握れないから、傍に固定して設置して、その使用の可否を試したが、ボタンが小さいと、目的とする正しい位置に指を置くことが難しく、また指に力が入らず、やはり使用は出来ないことが多かった。
 既に述べたが、一口にリモコンと言っても、形や大きさもいろいろあってバラエティに富んでいる。当然ながら、小さいボタンのリモコンから使えなくなり始めた。ちょうど、お箸ががうまくもてなくなった6月頃に、先ずは、携帯電話が使えなくなり、8月頃には、少し大きめのプッシュボタンの固定電話でも支障が出始め、その後は、テレビ、ビデオ、エアコン、最後にはウオッシュレットのリモコンまで、順次、使用できなくなっていった。恰も、手足をもぎ取られてゆくようで、雅子は、精神的にも、肉体的にも追い詰められてゆくのだった。(以下、明日に続く)

タグ : パーキンソン病 介護百人一首

193 特定疾患患者

 コムスン問題で介護への関心が高まった。最近のテレビで得た情報だが、現在、日本全国で介護を必要としている人は、439万人、およそ3,7%いるといわれている。コムスンが扱っていた訪問介護者は、そのうちの6万5千人である。
 ところで、国が指定する123の難病に認定されている特定疾患患者数は、全国でおよそ56.6万人(平成17年度)で、全人口の0.47%である。筆者の妻がパーキンソン病に認定された訳だが、そのパーキンソン病患者数は、全国で81,351人(平成17年度)0.07%である。つまり、およそ、1500人に1人のパーキンソン病患者がいるのだ。ただ、一口にパーキンソン病といっても、症状の重さにはかなりの違いがあって、筆者の妻のように手足が使えない重症患者がどの位いるのかは、今のところ把握出来ていない。いずれにしても、この数字が大きいのか、小さいのかの判断は分かれようが、思ったよりも多くの方々が難病で苦しんで頑張っておられる実態を認識し、自分達もしっかりと頑張らねばと、改めて心した次第である。因みに、滋賀県では、パーキンソン病認定患者数は984人で、その比率は、全国平均より少し高い。

連載(158) 難病との闘い 第六章 機能喪失の一部始終(15)

 雅子が電話を扱えなくなって困るのが、外出先から雅子への連絡が出来なくなったことである。一考にも、買い物以外に、散髪、場合によっては、他人と会う必要もあって外出する。その場合に、もちろん、時間を限定して出掛けるが、予定外の何かがあった場合の連絡方法がないのだ。電話をしても、雅子が出られないから、話ができない。予定が狂ったりして、帰りが遅くなるとか、後どのくらいで到着するとかが伝えられないのだ。何かいい方法がないものかと、いろいろと考えたが名案は出て来なかった。
 連絡が取れなくて、一考が気にすることは、何と言っても、雅子のトイレである。雅子にどれくらいトイレを我慢できる時間的余裕があるか否かである。何しろ、生身の人間だ。我慢するにも限度がある。一考は、一応、出掛ける前に、MAX4時間と設定しているが、実際には帰宅が5時間程度に伸びることがあった。当初は、3時間以上に渡って出掛けなければならないときには、本人は嫌がったが、無理やりに紙おむつをして出掛けていた。雅子には、これは保険を掛けていると思って我慢して欲しいと説得した。因みに、今までのところ、この保険が必要になったことは一度もない。
 その後も、連絡方法について、何かないものかと考えていたが、その内に、電話の鳴るブザーの回数を利用して、事前に決めておいた約束ごとで、簡単なメッセージを一方的に伝えることを思いついた。つまり、呼び出し音が1回鳴って切れた場合は、「あと30分ぐらいで帰れる」とか、2回鳴って切れた場合は「あと、1時間ぐらいで帰れる」といった具合である。たとえ、一方的な連絡でも、何も無いよりは、多少は安心を与えることが可能だと思っての対応だった。
 最近になって雅子が気づいたのだが、電話が掛かって来て、先方が留守番電話にメッセージを残す際、自動的にスピーカーホーンに変わるので、話している内容が分かるのだという。「なるほど」それを利用しない手はないとの思わぬアイディアとなった。これならば、もっと細かいニュアンスを伝えられる。従って、今ではこの方式を利用しているが、何しろ、一方的なメッセージの伝達で、それを聞いた雅子の気持ち、状況は全く掴めないだけに、不安を全て解消する訳には行かない。やはり、一刻も早く帰ってやることが第一なのだ。
 いずれにしても、コミニケーションツールとして、電話が使えないというのは、今の世の中では、全く取り残された世界に放り込まれたようなもので、気の毒を超越した、どうにもならないじれったさを感じる今日この頃である。
 なお、余談だが、雅子の携帯の解約手続きで、ちょっとした不快なやり取りがあったので、参考に付記しておきたい。
 解約は、2006年10月12日に行なった。その際に、身障者だと断ったにも関わらず、本人確認が必要だということで、販売店の女性が、わざわざ、少し離れて駐車していた車の中ににいた雅子のところまで、確認にくるという念の入れ方だった。「そこまでやるの?」と少々頭に来て、思わず大声を出してしまった。
「法律で決められているものですから」とその女性は、少しも動じずに応えて、雅子に、生年月日と住所の確認をして帰って行った。多分、マニュアルに沿った形式的なものだったのだろうが、その程度のチェックなら、騙そうとすれば、幾らでも可能だ。解約する訳だから悪用することにはならないと思う。ましてや、身障者であると申し出ているのだから、手帳などで確認する融通性を利かせてもらってもいいのではと、温厚な筆者が、不快感あらわにした一幕だった。(以下、明日に続く)

タグ : 特定疾患患者 パーキンソン病 コムソン

192 頑張っている!!

 念願の夢であったメジャーでの登板を果たした桑田真澄投手の頑張りは、お見事の一語に尽きる。「今更、米国に行ったって、どうしようもないのに」と、半ば野次馬的に興味半分で、彼の米国行きを見ていた。案の定、審判にぶつかって大怪我をし、もう駄目だろうと思っていた。 しかし、大変なリハビリを行なって、執念でメジャーに這い上がり、立派な成績を残している。同氏の意思の強さに改めて敬服する。
 KKコンビといわれたもう一人のKである清原和博は、桑田投手との長いライバル関係で競って来たが、常に一歩先を越されていたように思う。怪我が多く、このところ、シーズンを通して活躍したことが無い。二番煎じではなく、もう一度、彼らしく脚光を浴びる舞台に登場して欲しいと思っている。
 昨日は、横浜の工藤公康投手も頑張って勝ち星を挙げた。44歳1ヶ月での勝利は、自分の記録を塗り替えての最年長新記録だ。レッドソックスで活躍する岡島秀樹投手も、31歳だが予期以上の活躍だ。ゴルフでは、6年連続賞金王に輝いた不動祐里も復調の気配である。
 頑張っていれば、もう一度活躍の舞台が与えられると信じての努力が大事だ。その意味で、安倍総理も、ピンチの連続で苦戦が続いているが、堂々と戦って、支持率回復を果たし、改めて、その実力を発揮して欲しいものだ。

連載(157) 難病との闘い 第六章 機能喪失の一部始終(14)

(7)電話
 コミニケーション手段として、電話は欠かせないツールだ。中でも、携帯の利便性は抜群だ。しかし、この種の電子機器の扱いに弱かった雅子は、携帯は友人との付き合い上の飾り物に過ぎず、殆ど使っていなかった。それだけに、携帯のプッシュボタンが小さくて、それを押せなくなってその使用を諦めても、実害はほとんど無かった。左手を骨折して間もなくのタイミングだった。
 据え置き電話の受話器がきちんと握れなくなり出したのは、やはり、お箸が握れなくなった頃と時を同じくしていた。つまり、2006年6月半ばの頃からである。カラオケで、マイクがうまく握れなくなったタイミングとほぼ一緒だ。止むを得ず、スピーカーホーンを使ったり、一考が受話器を持って耳に当ててやるというサポートで何とかやりくりすることになった。しかし、その時点では、プッシュボタンが、携帯に比べて大きいことで、雅子もプッシュが可能だった。
 しかし、その後間もなく、症状の悪化に伴い、そのダイヤルボタンもプッシュできなくなって、雅子が自ら電話を掛けることは出来なくなったのである。
 従って、外部から電話が掛かって来ても、雅子は取れない。一考が取るのだが、大抵の場合は、二階にある一考の部屋の子機で取ることが多い。従って、雅子に掛かって来ている場合には、その子機を持って、雅子のところに急ぎ、それを雅子の耳に当ててやるのだ。雅子が話している間は、その受話器を持っていてやるのである。短い通話ならそれほどでもないが、長い通話の場合は大変である。手がだるくなって来て疲れてくるのだ。途中で「いい加減に切ってくれ」と、心の中で叫んだことは何回かある。
 若し、雅子に掛かってきた電話を、雅子がいるリビングに設置してある本機の受話器を取った場合は、はなはだ厄介だ。受話器のコードが雅子のいるところまで届かない。そうかと言って、スピーカーホーンにしても、雅子の座っている場所が少し離れているので、雅子の言葉がうまく拾えない。だからといって、雅子が直ぐにスピーカーホーンの位置まで移動するのも容易でない。いろんな小道具が置いてあって、それらを取り除かなければならないからだ。こういう場合は、もう一度掛け直してもらうか、こちらから掛け直さねばならない。
 こちらから掛ける場合は、スピーカーホーンを使える状態に準備しておいて、事前に、雅子を電話機に近い場所に移動させおいて掛けるのだ。子機で掛けることも可能だが、その受話器を持っていてやらねばならない。いずれにしても、一考のサポートは不可欠で、本人はいらいらしているに違いない。(以下、明日に続く)

タグ : 桑田真・_・臀┝不動祐里 工藤公康 清原和博

191 ミートホープ

 食品に関する偽装に関しては、賞味期限切れ製品の使用、改ざんなどが今までにも多く発覚し社会問題化した。今度は、コロッケに使用する肉を偽ったもので、消費者への裏切りは甚だしく、そこまでやるかと腹立たしく思う。しかも、今朝の報道では、「安いものを求める消費者に原因があるのでは」と云うに及んでは、言後同断だ。実害が出ていないのが幸いだが、そんな悪知恵があるのなら、一層のこと、そういう材料を使ったエコノミータイプの新商品を開発したということで、中身をオープンにして、堂々と販売したらどうか。果たして、購入者は出てくるのか。
 国民の「食」の一端を担っているメーカーである以上、ミートホープの田中社長は、真面目に取り組んで欲しい。

連載(156) 難病との闘い 第六章 機能喪失の一部始終(13)

(6)お化粧 美容院  
 身障者になっても女性には変わりない。雅子は、もともとファッションには敏感で、衣装、アクセサリーや持ち物には凝るタイプだった。友人達とのお付き合いも多かったことで、流行には遅れないように、なるべく新しいものを取り入れるタイプだった。近くに住む友人の前田さんとは、そういう意味でよく一緒に買い物に出掛けた間柄だった。
 そんな性格から、お化粧、身だしなみには、それなりに気を遣う方だった。しかし、両手、両足が不自由になって来ている雅子には、今までのように自由に化粧を施す訳には行かなかった。女としては、悲しく、辛い日々ではあるが、それを嘆いていても始まらない。
 最近では、幸か不幸か、外出の機会もほとんどなくなって来ていて、たまに一考が連れ出すドライブ以外には、通院、美容院が、そのほとんどになるつつある。それでも、それらの前日には洗髪を、出掛けに際しては、口紅を塗ることを希望する。そんな女心のいじらしさに、一考は胸を打たれるのだ。雅子の不本意さは手に取るように分かるだけに気の毒である。
 今までの行きつけの美容院は、JR唐崎駅近くにあるレインボーという美容院である。もう何年にも渡ってお世話になっていたことから、そこの店長とも懇意になっていて、先日も、あの電子治療に関する情報をもらったのも、そんな関係だったからである。
 自分で車が運転できなくなってからも、一考が送り迎えすることで、引き続き通い続けていたのだが、この店が、ビルの二階にあって、エレベーターもエスカレーターもなく、歩いて階段を登らなければならなかった。その後も、何とか、それまで通り、その店に通い続けていたが、2006年の後半に入ると、その階段の上り下りが大変な難行となり始めた。最初の頃は一考が手を引くことで何とかなったが、10月には肩を支えて引き上げたり、引き降ろしたりしなければならず、バランスを崩しそうになって必死の階段との闘いとなって行った。そして、遂に、そうした努力では如何ともし難い症状に至り、結果的には、12月21日の通いが最後とならざるを得なくなったのである。なお、長い間、お世話になった印しとして、雅子が話題にしてくれていた一考の作品「執念」を謹呈したが、それは厚かましい一考の自己PRでもあった。
 新しい年を迎えた2007年1月からは、近くのジャスコ館内にある美容院でお願いしている。ここは、洗髪時のステップを除くと、バリアフリーなので、車椅子で何とか通えるのである。(以下、明日に続く)

タグ : ミートホープ

190 美空ひばり

 NHK衛星第2テレビで昨夜から今夜に渡って「美空ひばり」特番を、「何と10時間」も放映中である。「生誕70年、珠玉の70曲」と題しての大々的な取り上げだ。集められた秘蔵の映像がかなりあるらしい。ファンにとっては堪らない企画だ。
 筆者には、小学生頃から、彼女の歌には記憶がある。但し、流行歌といわれていて、低俗視していたこともあって、ほとんど興味は持たなかった。自分の考え方が、幼い頃から、トップではなく二番手(弱い者)を応援するタイプだったことで、巨人が嫌いと同様に、嫌いな歌手の一人だった。
 しかし、社会人の終わりの頃になって、カラオケの登場で歌謡曲にも関心が出てきた頃から、筆者のレパートリーの中に、彼女の歌がかなりの数を占めるようになった。彼女の歌のうまさに惹かれた結果である。
 特に、死を目前にして歌った「乱れ髪」「愛、燦燦」「川の流れのように」は、そのうまさを見事に集約したもので、とても好きな歌である。
 亡くなって18年目を迎えて、なおNHKがかくも取り上げるだけの存在であったことを改めて思う。死後の受賞だったが、国民栄誉賞も、当然の結果だったのだろう。

連載(155) 難病との闘い 第六章 機能喪失の一部始終(12)

(5)歯磨き 洗顔
 10月に入ると、朝食時のコーヒーカップが持てなくなって来ていた。そして、11月に入ると、洗顔時に、口をゆすぐ際に、そのカップを持つのが難しくなったのである。一歩一歩、病魔は雅子を試すように悪化を楽しんでいるようであった。それでも、雅子は、何とか、片手であったが、一人で洗顔をしていたが、11月の後半に入ると、遂に、一考の助けが欠かせなくなった。
 一般的には、毎食後の歯磨きが理想であって、雅子も、一人で出来た時までは、三度の歯磨きを実行していたが、一考の世話が必要となってからは、一日に毎朝夕二回に止めることにした。一考への遠慮があっての自主規制なのだろう。
 今まで、何とも思っていなかった事が、一つずつ出来なくなって行くことに、雅子には、驚きや不満よりも、諦めが先行しているようだった。ここまで来ると、悔やんで見ても、焦ってみてみても仕方がない。とにかく、何処までも、与えられた土俵で精一杯頑張るしかないと自分に言い聞かせているようだった。
 具体的なサポートの方法も、症状の悪化と共に自ずと変化してゆく。お箸が握れなくなった頃のサポートは、歯ブラシに、歯磨き材を載せてやることと、不安定な姿勢を少し支えてやる程度でよく、歯磨きそのものの行為や洗顔は、何とか、雅子が自分で行なうことが出来た。それが、カップが持てなくなった11月初めには、電動はブラシを持って、口に入れて磨いてやらねばならなくなったし、口をゆすぐ際にはカップを持って、口に水を注いでやることが必要となった。また、11月後半に入ると、身体の支え方も、かなりしっかりと支えなければならず、結構な重労働となった。また、その前後の洗面所への移動も、手を引いてのサポートは欠かせなかった。
 一考も2007年1月で66歳となり、力仕事には不向きな年齢になっていた。それに、かつて、歩いて鍛えていた足腰も、次第に弱ってきていたことで、介護でも、なるべく、疲れを少なくする、いわゆる、省エネ対策が急務となっていた。
 しかし、2007年2月頃になると、身体の支えは、単純な支えだけでは手に負えなくなってきた。腕を抱えて、自分の肩を差し入れて持ち上げるようにしなければならなくなり、その場合は、他のサポート作業は片手で対応を余儀なくされた。
 一考も、いろいろと省エネのために腐心していたが、そこで思いついてのが、タクシー、即ち、屋内車椅子の利用で、これに座ったまま、歯磨き、洗顔をする方法に変更した。2007年5月に入ってからで、これで、それまで大変だった歯磨き、洗顔の力仕事を、のんびりとした介護作業にと変換することが出来た。(以下、明日に続く) 

タグ : 美空ひばり

189 エアーセクション

 首都圏でJR4線が停電で列車が立ち往生し、通勤、通学に大混乱が起きた。エアーセクションと呼ばれる架線の接合部分が溶けて切断したためである。
 運転手には、この部分では停止しないことが教育されていて、その表示が設置されているが、この日は、赤信号を見た運転手がうっかりして、正常な停止位置から79メートル手前に止まったために起きたという。原因ははっきりしていて、運転手のボーンヘッドだ。それにしても、回復までに5時間も待たされた乗客は堪ったものではない。
 安倍内閣は国会の会期を延長した。残されている重要法案を、このまま審議未了、廃案にしてはいけないとの判断のようだ。それは、恰も、これらの審議未了が、上記列車事故の「エアーセクション」での停止に相当するとでも思っているのかも知れない。仲良し官邸団の知恵が、国民にどう判断されるのか、答えは、待ったなしで、来月末にははっきりと出る。安倍さんも結構強気な勝負師だと思う。

連載(154) 難病との闘い 第六章 機能喪失の一部始終(11)

 子供たちの間で、着せ替え人形とかミルクのみ人形という遊びが流行ったことがあった。一考は男だったから、そんな遊びをしたことはないが、女の子達が遊んでいたのを承知している。毎日、こうして、雅子の着替えを繰り返していることで、着せ替え人形遊びの楽しさに思いを馳せるようになった。しかし、人形の着せ替えには、生きたもので得られる生の反応はない。最近では精密なロボットが開発されてきているが、それでもその反応は限られているだろう。着せ替え人形の遊びの楽しさは、あくまでも、きれいな服に着替えさせることで、自分の思いや、希望、願いといったものを達成させているところにあるのではと、一考は感じている。
 しかし、実際に生身の人間を相手に着替えさせる作業は、作業そのものは大変だが、楽しさも生きていて、人形相手とは比べ物にはならない。雅子は、いつも、思い通りに動かせない身体を、少しでも着せ易いように、脱がせ易いようにと、思い通りにならない身体をよじるようにして対応してくれる。靴下を履かせる場合も、右足の場合は少し持ち上げるように動かせてくれる。気の毒な身体になっているが、その誠意の発揮に懸命で、一考も、心をこめてその作業に当たる。一段落するごとに「ありがとう」と繰り返してくれるのにも、その気持ちが心に滲みる様だ。
 この病気が進むに連れて、今まで身体にぴったりとしていた衣服は、次第に着られなくなって来ている。せっかく、買ってあった多くの衣装は、残念ながら、廃棄したものもあれば、殆どがお蔵入りになっている。ここでも、自分の生きた歴史の証である衣装を捨てると言う選択を余儀なくさせられるのだから、難病で追い込まれている雅子には辛い決断だったはずだ。
 とにかく、着替え易い衣装に買い換えることが必要になった。特に、下着、ズボン、靴下、加えて靴などを新たに購入することになった。ズボンは伸び縮みが利くゴムバンド入りのものにした。おしゃれにセンシティブだった雅子にはこれまた辛い切り替えだったに違いない。その購入に当たっては、多くのものはいわゆるテパートの通信販売を利用している。電話一本で済むので便利だ。
 それでも、実際の着替え作業は、症状の悪化で、力仕事になって来ている。いずれも、ベッドや椅子に座られて行うのであるが、自分で立つことが出来なくなって来た2006年6月以降は、パンツやズボンは、座った状態で半分はかせてから、一旦、立たせて、引き上げることになるのだが、その立たせた状態で、引き上げる作業が容易ではない。自分でしっかりと立てず、それを支えながら作業をしなくてはならないからである。最近は、パンツやズボンなどは、寝かせたまま、身体を回転させて行なう方法を取り入れて、多少は省力化ができるようになった。それでも、この着替えは、いろいろある介護作業の中で、大変な作業の部類の一つである。(以下、明日に続く)

タグ : エアーセクション 会期延長 仲良し官邸団

188 ガス検知器

 渋谷の女性専用温泉施設「シェスパ」での爆発事故で、その後の調査で、ガス検知器が設置されていなかったことが判明した。環境庁は、同種施設の天然ガスに関する安全対策を強化し、ガス検知器の設置を義務化する方向で、温泉法の改正検討を行なう模様である。
 何よりも、この種の危険を想定しておらず、法の不備もあって、日々の安全管理に大きな穴が開いていたということに根本的な原因があるようだ。いつもそうなのだが、こういう尊い犠牲者が出て、初めて泥縄式に手を打つ対応が、繰り返し見られる。エレバーターもそうだったし、ジェットコースターもそうだった。犠牲になられた方々のご親族の方には、どうして自分達の娘が犠牲者に選ばれたのかと、その怒りのぶつけ方に戸惑っておられるのではないか。筆者の妻が、1000人に一人という難病に掛かって毎日苦しい闘いを続けているが、「何で、私の妻が1000人の一人に選ばれたのか」と、筆者でさえ、それへの疑問、不満は小さくない。安全、安心、健康は幸せには欠かせない最低限の条件だ。
 話は変わるが、終盤国会で、強気で突っ走る安倍内閣に、ガス検知器が働いているのかどうかが心配だ。来るべき参院選という点火で、大爆発にならないことを願っている。

連載(153) 難病との闘い 第六章 機能喪失の一部始終(10)

(4)着替え
 着替えは、少なくとも、起床時と就寝前、更には、入浴時には必ず行なわなければならない行為であるし、それ以外にも、外出時などの必要に応じて行なう作業だ。一考が帰郷した2004年12月末では、小さなボタンを止めるような細かな作業を必要とした衣服の脱着には、手伝いが必要だったが、普段着の着替えなどは、雅子は何とか自分でこなしていた。
 それから一年後の12月末でも、服用している薬のせいか、雅子の身体の動きも緩慢になっていで、着替えにかなりの時間がかかるようになって来ていて、それを見かねて、一考は手伝うケースが増えてはいたが、それでも、ある程度は自分で対応していた。
 本格的に着替えに手伝いが必要となったのは、あの転倒で足を捻挫した時に始まる。つまり、平成18年2月15日からである。ギブスが取れた3月初めからは、少しは楽になるが、4月3日に起きた左手首の骨折で、一人での着替えは不可能となった。泣きっ面に蜂、踏んだり蹴ったりの惨めな展開だった。ギブスが外れた5月11日以降も、左手は殆ど動かせなくなり、右手にも支障が及び始めていたことで、着替えに関しても、かなりの面でサポートをすることになった。そして、お箸が握れなくなり始めた6月半ばからは、もはや、着替えは一考の専任仕事の一つに加わった。
 下着の取替えは、通常は入浴時に行なうので、特別な配慮は必要でない。しかし、雅子が、もともとおしゃれに凝る方だっただけに、普段着る衣装については、その要求は結構細かく希望を申し出る。天候や出掛ける先などを考えて、そのコーディネーションなどに気を遣うからだ。逆に、一考は、その辺りのことには、全くの無頓着なので、二人のリズムが合わず、一考がたまたま気分が優れない時等には「どうでもいいじゃないか」と苦情を言ってしまうこともあって、後で反省することになる。
 少しでも美しく身奇麗に見せたいとする女心は大事である。雅子の場合も、幸い、それが健在である証であって、多少手間が掛かっても、化粧や衣装には出来るだけ雅子の希望を叶えてやることへの配慮を欠いてはならないと、自分に言い聞かせている。
 いずれにしても、介護の仕事は、結構忍耐を必要とする地味な仕事が多く、この着替えの仕事も例外ではない。(以下、明日に続く)

タグ : シェスパ ガス検知器 温泉法

187 2億7千万件照合

 今朝の日経で、社保庁は全年金記録を再調査し、照合し直す方針を固めたという記事が出ている。今までの5千万件未照合のもの、1千4百万件の未入力のものだけの照合に止めずに、全ての記録再調査するというから、びっくりだが、出来るものなら、それに越したことはないとも思う。
 驚いたのは、2億7千万件というとてつもない大きい数字だけではなく、そのための作業で、新しいシステム開発で、十年は掛かるといわれていた作業が、何と一年で終わらせることが可能だということだ。
 「やれば、やれるじゃないか」という一方で、「本当かね?」との疑問が大きく、暫くは、お手並み拝見という気持ちである。
 お手並み拝見といえば、終盤国会での安倍総理さんの強気である。昨日も教育改革3法案イラク特措法を強引に成立させた。会期を延長してまでの今後の対応が、参院選でどう出るのか、大きな賭けだと思う。

連載(152) 難病との闘い 第六章 機能喪失の一部始終(9)

(3)食事
 一日3度の食事は生きていく上で欠かせない。朝食は、早めの6時過ぎに取る。大抵はコーヒーにパン、若しくはシュークリーム、雅子はそれにバナナとヨーグルトで済ませる。昼食は、母親の朝食を兼ねるので、日曜日から木曜日までの一考が担当している日は、和食のセット(野菜、味噌汁、干物を焼いたもの)若しくはうどんなどの麺類である。母親の面倒を久子が見てくれる木曜日から土曜日までは、スーパーで買って来た有り合わせで済ませる。夕食は、母親の好みを考えて幾つかのメニューを適当な順番で提供している。いずれにしても、料理の内容、作り方などは、全て雅子の指導、監修によるものだ。人様の食事を用意するのは容易なことではないことを改めて認識する。
 雅子が食事を作ることから手を引かざるを得なかったのは、2006年の正月過ぎからだった。この年のお雑煮は、雅子が作っていたことは確かである。要するに、右手が自由に使えなくなってしまった以降は、一考が、雅子のアドバイスを受けながら、手探りで作り始めた。この頃は、雅子が木曜日を除く週6日を担当していたので、そのまま引き継いで、週6日間を一考が作ることになった。一考も、まさか、会社をリタイヤー後に、人様の食事を作ることになろうとは思ってもいなかった。しかも、母親の食事まで用意することになるとは、人生はわからないものである。
 それでも、初期の頃は、外食も可能だったこともあって、母親に食事を作らない木曜日には、、二人で出掛けたのだったが、それも、2006年5月11日に手首骨折のギブスを外した日に、近くで軽食を共にしたのが最後で、それ以降は行きたくても行けない状態になってしまった。
 既に紹介したように、2006年の6月半頃から、お箸が持てなくなり、暫くは、ご飯は海苔巻きにして、手でつまんで口に運んでいたが、それも、8月中頃には、海苔巻きが握れなくなったので、出来なくなってしまった。止むを得ず、一考が少しずつ、口に運んで食べさせることを続けている。口に物を入れる作業で、雅子が自分で出来るのは、お茶やミルクなどの液体をストローで吸うだけだ。
 それだけに、雅子にとっては、とても悲しくて辛い毎日だ。自分が好きな時に好きなものを食べ、飲みたくなった時に好きなものを飲むといったことが出来なくなった。比較的、間食を楽しんでいただけに、我慢しての毎日に違いない。一考は、なるべく、雅子の気持ちを推し量って、食べ物、飲み物をサービスするように努めているが、かゆいところまで手が届いているという訳にはいっていないはずだ。特に、お風呂から上がった際の飲み物、10時、3時ごろのおやつには、なるだけサービスにつとめるようにしている。
 加えて、服用するお薬の時間管理も大変である。6種類以上あるお薬、それに最近は便秘薬も加わって、その管理は、今では毎食後となっているが、一時は4時間おきだったこともあり、うっかりすると忘れてしまうこともしばしばだった。雅子も大変だが、サポートする一考もその対応に大わらわなのである。(以下、明日に続く)

タグ : 社保庁 2億7千万件 教育改革3法案 イラク特措法

186 渋谷の松濤で大爆発

 昨日、真昼間に起きた渋谷、松濤での大爆発事故には、他人事ではない身近なものを感じた。数年前まで、筆者が住んでいたのは杉並区の永福町で、井の頭線を利用していて、渋谷はそのターミナル駅で多用していた。また、退職後に始めた散歩コースの一つで、その界隈は何回か歩いた。文化村の近くからは、能楽堂、戸栗美術館、知事公舎から松濤公園につながるコースだ。しかし、ここにそんな温泉が出ていたとは全く気づいていなかった。
 目覚しい技術革新で、地下の掘削も容易になり、1500メートルというとてつもない深い地下から温泉をくみ上げることが可能になった。そういえば、新しい地下鉄の大江戸線などは、地下の100メートル近くのかなり深いところを走っている。とにかく、地球の奥深くに穴を開ける訳だから、未知のことも多いはずだ。その上、東京、千葉辺りの地下には、かなりの埋蔵量のガス田があるという。東京と云う大都市の不安を改めて知った次第である。
 ところで、国会でも、通常国会の大詰めを迎えて大変な荒れ模様だ。何が起こるか分からないと言えば、それまでだが、せめて、政治では、国民の安全と安心だけは、しっかりと確保して欲しいと改めて思う。

連載(151) 難病との闘い 第六章 機能喪失の一部始終(8)

 まさに、秋の陽が落ちるがごときのスピードで、雅子は、何もかもが自分でできなくなり始めたのである。その根幹は、左手に加えて、右手も使えなくなったことで、手も足もないような「だるま」のような状態に追い込まれてしまったからである。「だるま」や芸者ならまだ転がることができるが、雅子にはそれもできず、「だるま」以下の生活に甘んじなければならなかった。冗談は別として、雅子はどうしようもない悔しさを何処へもぶつけようがなく、唯一の楽しみとなったテレビを見ながら、時々「何故なの?」と自問自答することが増えた。
「健康が自慢であった自分が、こんなことになるなんて、考えてもいなかった」一人で椅子に座っての生活がメインを占める毎日が続く中で、雅子は、自分の想定外の人生に、懸命に堪え続けている。それは、大変な自分との闘いの毎日なのだ。
「これから、何処まで悪くなるのかしら?」雅子は、底なしに悪化する症状への不安を、一考にぶつけることもあった。
「神の試練を受けているのだ。とにかく、開き直った気持ちで、それに負けずに頑張って生きて行くしかない」一考も、そんなことを言って慰めるが、他に適切な言葉が見つからないのだ。あれだけ頑張って家を守ってきてくれた雅子に、病魔は止まるところを知らず、猛攻を続けて訳で、慰める立場の一考も、神の存在を疑い始めていた。

「何らかの治療がないものか」という一考の切実な問い掛けに、春日医師から、かつての同氏の部下だった津島医師の紹介を受け、左手の固縮(ジストニア)を柔らかくする特殊薬品を注射してもらう治療を受け始めたのが2006年5月末で、6月初めのテスト治療を経て、7月からその本格治療を受け始めた。指の関節部分に薬品を注入するだけに、見た目には、結構痛そうだったが、雅子はよく堪えて、そんな素振りは見せなかった。効果は、1~2ヵ月後に現れ、カチカチに固まっていた指の間に、一考の指が入るぐらいの柔らかさになった。効果の持続が3ヶ月程度ということで、そのタイミングで、繰り返し注射を受けている。
 新たに首が回らなくなってきた2007年3月には、テスト的に首にも数箇所注射を受けた。一考らの素人目には、その効果は、今一のように思えるが、専門的には然るべき効果が出ているようだ。一考は、もっと画期的な改善が進むのではと密かに期待をしていただけに、首の動きの効果には、少し物足りなさを感じている。いずれにしても、雅子の闘いは終わらない。(以下、明日に続く)

タグ : 渋谷区松濤 ガス田 ジストニア

185 ふるさと納税

 参院選を前にして、ふるさと納税が話題になっている。地方税の一部を、かつてお世話になったふるさとに還元しようとするもので、筆者は、その意図する精神、考え方には賛成だ。但し、あくまでも本人の意思による申告制であること、税率も一律10%ではなく、MAXを定めて、申告者の申し出る「率」にすることを条件としたい。
 実行に当たって、そのシステム作りや運営に相当な額の経費がかかるようで、それがどの程度かを確認しておく必要があろう。あまりにも、バランスが取れないなら別の考え方を検討する必要も出てくるのではないか。
 私事だが、筆者が単身赴任を続けた20年間は、住所の移動をしなかったため「ず~と、全額ふるさと納税」していた訳で、住んでいた東京都や横浜市に、お世話になりながら支払っていなかったことで、少々片腹痛い思いだった。現実には、そんな方も多いのではないか。ふるさと納税の逆を考える必要も有りそうだが、……。

連載(150) 難病との闘い 第六章 機能喪失の一部始終(7)

 左手の親指が曲がり始めると、左手そのものが。一気に使い難くなって、日常生活に大きな支障が出始めた。
 ちょうどその頃、タイミングよく、雅子の姉の霧子から、その種の指の異常に効果があるのではということで、鍼治療の先生の紹介を受けた。藁にでもすがりたいと思っていただけに、可能性のあるものには、何でも挑戦してみようとのことで、三ヶ月間ほど通ったが、その効果には期待したほどのものはなかった。
 その後、年が明けて間もなく、口コミ情報で電子治療に関心を持ち、ドクタートロンという機器を購入して、毎日、その照射を受けてみたものの、これといって目に見えた効果は認められないまま、あの残念な二つの事故が起きた。2006年2月に起きた左足捻挫と4月に起きた手首の骨折である。特に、手首をギブスで固めたことが、手首や指の固縮(ジストニア)を促進させてしまった訳で、その結果、左手が使えなくなり、それが右手に過大な負担を掛け、遂には右手が使い難くなるという悪化の連鎖反応だった。
 右手がおかしくなり始めて、最初に現れた不都合な症状は、お箸が持てなくなったことだが、それについては食事のところで述べることにする。その次に起きたのが、電動歯磨きのスイッチが押せなくなったことだった。7月に入って直ぐのことである。続いて、その歯ブラシを握ること、更には、口をゆすぐカップを持つにも支障が出始め、更には、顔を洗うのも難しくなった。矢継ぎ早の悪化連鎖だった。仕方なく、一考が、全てをサポートしてやることになった。
 それ以降は、まさにドミノ倒しのように、次から次へと今まで出来ていたことが出来なくなることが相次いだ。その代表例が、リモコンのボタンやスイッチのボタンを押せなくなり始めたのである。その場合、そのボタンの大きさが小さいものほど、うまく押せない。携帯電話などはその典型的な代表例で、直ぐに解約へと直行した。ボタンの大きさが親指程度であれば、何とか押すことが出来るが、それより小さいと、思うように押せないのだ。
 今の生活様式では、あらゆるものがボタンを押すことで、オン、オフだけでなく、細かい操作を行なう仕組みになっている。それが出来ない訳で、生活の可否に直結する、とてつもない大きな支障となったのである。とにかく、テレビ、ビデオ、電話、エアコン、調理器、電子レンジ、トイレなどなどが自由に操作できなくなり始めたのだった。雅子は、恰も、楽しんで遊んでいた子供が、次から次へとそのおもちゃを取り上げられてしまうような悲しくて、堪らない、辛い思いに苛まれながら、悪戦苦闘の毎日を闘っているのである。(以下、明日に続く)

タグ : ふるさと納税

184 さあ、どうなるの?

 第166通常国会もいよいよ終盤、23日の最終日を延長するかどうかで、大詰めだ。展開次第では、参院選にも大きな影響を与えるだけに、与野党の駆け引きが注目される。さあ、どうなる? 国民のためになるベストの決断、選択をして欲しい。
 北朝鮮へ、IAEA代表団の派遣が今日にも決定される。六カ国協議が合意した核施設の停止、封印の具体的方法が話し合われることになるという。さあ、どうなる? いつも、北朝鮮には裏切られているだけに、その動きに注視してゆきたい。
 余談だが、将棋名人戦も来週末に行なわれる最終局で決着がつく。普通なら投了していてもおかしくなかった将棋に、強靭な粘りで奇跡の逆転勝ちでタイに持ち込んだ郷田真隆九段。一方、第十八世永世名人の称号をほとんど手にしていた森内俊之名人もこのまま引き下がれない。なお、郷田九段は、昨夜も、コンピュータでの新しい棋戦の準々決勝で、渡辺明竜王に、これまた必敗の将棋にも逆転勝ちしていて、神がかりの将棋が続いている。さあ、どうなる? 二人の秘術を尽くした好局を期待している。

連載(149) 難病との闘い 第六章 機能喪失の一部始終(6)

(2)手が動かなくなるまでの悪化の経緯
 この難病は、2001年2月頃に、左手の人差し指の異常から始まった。当初は腱鞘炎だとか、肩こりではとかの紆余曲折があったが、1年10ヵ月後の2002年11月になって、大津の日赤病院で「パーキンソン病」と診断された。しかし、その時点では、日常生活にはそれほど大きな支障がなかったことから、二人の別居生活はそのまま続いていた。
 この間、2002年10月には退職記念のギリシャ旅行、2004年10月には竜王戦の韓国ツアーに二人で参加した。前者では全く支障はなかったが、後者では、食事のサポート、衣服の着脱、荷物の扱いなどでの手助けを必要とした。なお、韓国ツアーの少し前、2004年6月に次男のところに初孫が生まれて、お祝いに上京した際に、手がうまく動かずに、孫を抱くのに必死だったことが思い出される。つまり、2004年には、雅子の手はかなり悪化が進んでいたことになる。
 そして、2004年の11月末に一考が偶々大津に帰宅中に、雅子が運転する車に同乗していた際に、その決定的な場面に出くわした。S字カーブでの思わぬ拙い運転だった。左手の症状が考えていた以上に悪化しているのを目の当たりにして、急遽、それまでの東京生活に終止符を打って、その年末に帰郷した。
 その時点での症状は、左手の指が、思うように使えず、その結果、両手を必要とする作業や、細かい作業が出来なくなり、日常生活に支障が出始めていて、一考のサポートが必要になっていった。
 それでも、2005年の8月までは、毎月の通院も、何とか一人でこなしていたが、9月になると、診断依頼書を提出する際に、フィルムファイルに診察カードを差し込む作業が一人では出来なくなり、10月以降は一考の付き添いが不可欠となった。
 人差し指が曲がり出し、真っ直ぐにならなくなり始めたのも、夏場を迎えた頃からで、いろんな作業が、それまで以上にやり難くなってきていて、左手で頼りに出来るのは、親指だけになっていた。
 その頼りにしていた左手の親指が、急に他の指と同じように曲がり始めたのは、夏が終わって秋に入った頃だった。台所でじゃがいもの皮を剥いていた時のことである。ちょっとしたことで力を入れた際に、急に親指がおかしくなったのだ。雅子には、頼りにしていた親指だっただけに、受けたショックは小さくなかった。(以下、明日に続く)

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183 櫻井よしこ

 今、フジテレビの「報道2001」を見ながらこれを書いている。石原慎太郎都知事、中田宏横浜市長と一緒に桜井よしこさんが、興味ある議論を交わしている。今日はこの櫻井よしこさんのことに触れてみたい。 
 昔、日本テレビの「NNN今日の出来事」のメインキャスターをしている頃の櫻井よしこは、正直言って好きではなかった。あのゆっくりとしたモノトーンのしゃべり方は、何故か筆者の共鳴を呼び起こさなかった。それが、最近の彼女のものの考え方、主張には、なかなかの迫力があって、訴えてくるインパクトの大きさに共鳴するようになった。何よりも、よく調査し、勉強していることが窺われ、知見の深さを感じさせる。話し方そのものは以前のキャスター時代と変わっていないのだが、訴える力に雲泥の差があることに、不思議なものを感じる。
 学歴は、ハワイ大学マノア校歴史学部出身で、かつて「エイズ犯罪 血友病患者の悲劇」で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞している。そんなバックグラウンドに、今の彼女が原点があるようで、改めてその関心を掻き立てる。大宅賞にかんしては、筆者もあこがれたことがあったが、箸にも棒にも掛からなかったことを思い出す。とにかく、最近の彼女の発言の説得力に惹かれることは多い。ジャーナリストの立場だけに留まらないで、アクションに結びつける立場での活躍を期待している一人である。

連載(148) 難病との闘い 第六章 機能喪失の一部始終(5)

 屋外で初めて車椅子を使ったのは、2007年1月11日の年明けでの最初の吉田病院への通院時である。その数日前の醍醐の吉田病院への通院では、車椅子を車に積んで持って行ったが、雅子が歩けるというので、駐車場から数十メートルの距離があったが、雅子の手を引いて頑張って歩いたので、何とか車椅子を使用することもなく済んでいた。
 車椅子の車への積み込み、積み下ろし作業は、見掛けよりも重くて、それほど容易ではない。しかし、一旦、雅子を車椅子に乗せてしまうと、移動そのものは、楽でスムーズで、その有り難味を実感する。雅子本人も、疲れずに済むことから、その方がいいと思ったに違いない。自ら歩くことの大変さは、手を引いていてもよく分かる。
 一方、室内でも、手を引いて、身体を支えての歩きが困難になって来ていたので、キャスターの付いた小型の椅子を購入し、それを利用するようになり始めていた。2月半ばのことである。二人の間では、このキャスター付きの椅子を「タクシー」と称し、リビングから寝室、トイレ、洗面所、風呂場などへの移動に多用するようになって行った。しかし、歩くことを止めてしまうのは、運動不足だけでなく、歩くという機能を忘れさせてしまう恐れがあり、それを避けるために、状況を見ながら、多少は無理があっても、歩行させることにも配慮した。
 そのうちに、雅子の足の動きが極端に悪くなり、身体を支えられても、引っ張られても、歩くこと自体が難しくなり、二人の体力の消耗と、一考の腰に負担が大きく掛かるようになり、次第に、そのタクシーを使うことで逃げることが多くなっていった。
 しかし、このタクシーは一般の家具である椅子を活用していたので、高さが低く、腰を屈めての作業となり、一考への腰への負担は拭いきれず、腰痛の心配が出始めていた。そのことを介護の業者の方に話すと、室内専用の車椅子があることが分かり、4月度からはそれをリースして使用し始めた。確かに、腰に負担が少なくて、随分と作業が楽になった。症状の変化に合わせて、いろんな工夫が施して、何とかやりくりしている今日この頃だ。(以下、明日に続く)

タグ : 櫻井よしこ 石原慎太都知事 中田宏横浜市長 報道2001

182 世紀の大逆転でタイに

 森内俊之名人に郷田真隆九段が挑戦している将棋名人戦七番勝負は、郷田2連勝の後、森内名人が3連勝して第十八世永世名人に王手をかけての第六局が14,15日の二日間に渡って青森県八戸市で行なわれた。将棋は終始森内優勢で進み、終盤近くでは、ほぼ第十八世永世名人を手中にしていた森内名人が、郷田九段のとんでもない粘りで、世紀の大逆転を食らって、勝負は最終局に持ち込まれることになった。
 郷田ファンを自称する筆者は、一昨日からインターネットと衛星放送に付ききりでその展開を楽しんでいたが、終盤になって一気に勝敗が傾き、形作りに入ったと思われる郷田九段の指し手をみて、諦めて、妻の介護を始めていた。ところがである。もう投了したのだろうと思って画面を見ると、まだやっているではないか。勝負あったということで、検討を止めていた控え室の検討陣から「おかしいぞ」との声が出始め、一転、雲行きが変わって、郷田が大逆転勝利を収める結果となった。これほどはっきりと勝勢にあった名人が、逆転を食らうとは思いも寄らない結果で、昨夜は興奮で気分は最高だった。
 筆者は、現在の将棋界で実績が抜群の羽生善治第十八世永世名人になるべきだと思っていただけに、神は、羽生にも他力本願ながらチャンスを残す配慮をしたことになる。ここまできたら、最終局にも郷田が勝って、名人を奪取して欲しい。そうすることで、羽生に自力のチャンスが巡ってくることになる。
 それにしても、この二日間、恰も、自分が闘っていたように、とても疲れたのだが、ファンって面白い存在だ。郷田の凄まじい「執念」に感服、今年初出版した推理小説の「執念」に思いを馳せていた。

連載(147) 難病との闘い 第六章 機能喪失の一部始終(4)

 左手首の筋肉を和らげてもらう治療のために通院している醍醐にある吉田病院へは、車でなければ通えなかったことから、最初から車での通院だったが、京都駅前の吉田病院へは、7月度まではJRを使っての通院を続けていた。しかし、8月に入ると、雅子の症状から、電車への乗降が難しくなり、他の乗客の方々にも、お気遣いやご迷惑をお掛けすることになり始めたので、車での通院に切り変えることにした。しかし、この京都駅前の吉田病院には、駅に近いこともあって、病院専用の駐車場がない。近くに二つの駐車場があるが、一方はビルの屋内にあって、料金も少々高くて使いにくい。他方は屋外にある青空駐車場で、料金も少し安くて使い勝手はいいものの、駐車スペースが限られていて、十台程度しか駐車できず、空車のタイミングを捉えるには、ラッキーに期待するしかなかった。しかし、幸いなことに、結構、そのラッキーに恵まれて、青空駐車場を利用することが多かった。いずれの場合も、駐車場からは百メートルそこそこの歩きが必要だったが、暫くは、車椅子を使わずに、腕を組んで歩いての通院だった。
 一方、毎日出掛けるスーパーでの買い物だが、その頃はなるべく二人で行くようにしていたが、足の動きが悪くなるにつれ、一緒に出掛ける回数が次第に減少し、最後に二人で出掛けたのは、記録によると、手首の骨折後5ヵ月後の2006年9月9日だった。この時点では、買い物の手押し車を杖の変わりに支えと先導役として活用し、何とかよちよち歩きが可能であった。このような経緯を見ると、歩きに関しても、急速な症状悪化の変化をよりビジュアルに捉えることが出来る。
 10月になると、ベッドから一人で立ち上がること、或いは椅子、トイレなどから立ち上がることが一人で出来難くなって来ていた。また、体が少し左に傾くようにもなり、その矯正に、一考はいろいろと手を尽くすが、治る気配はさらさらない。むしろ、リバウンドが心配される具合だった。こうして、左手の動きがままならなくなるにつれて、左足の動きが制約されるようになって行った。
 年の暮れが迫る頃になると、遂に歩くことが厳しくなった。手を引いても、腕を組んでも、なかなか前に進まず、少し手を離すと転倒しそうになる。頼りにしていた右足にも病気の影響が出始めていて、歩くという基本動作が、ほとんど出来なくなっていた。雅子には、とても悲しい症状の悪化であった。(以下、明日に続く)

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181 「山」と「川」の合言葉

 通常国会もあと一週間そこそこの会期となった。重要法案が数多く残っているだけに、どんな結末になるのか興味深い。
 それと同時に、参院選挙への関心も高まってきていて、有名人の候補者も次々と名乗りを上げてきている。今朝の報道では、テレビで名を売っているあの「丸山和也」弁護士が、今度は、間違いなく出るという。しかも、自民党からのようだ。これで、元アナの丸川珠代と合わせて、二人の「丸」が揃った。また、中山恭子補佐官も出馬するから、丸山、丸川、中山の「山」と「川」の合言葉で、支持率下降傾向にある自民党の苦境の難山を乗り越えられるのかに注目している。筆者は、民主党から出馬予定の「横峯良郎、さくらパパ」に比べれば、かなりプラスに働くのではと見ている。果たしてどうか!

連載(146) 難病との闘い 第六章 機能喪失の一部始終(3)

 雅子が骨折をした時点で、一考は、そんなに遠くないうちに、2階が中心の今の生活は無理になると考えるようになっていた。雅子の歩行力が、階段の上り下りには堪えられなくなることが予測されたからである。そこで、止むを得ず、急遽、リフォームを行なうことを決意し、さし当たって、二階の奥にあった寝室を、それまで応接室に使っていた一階の部屋に移動させた。
 リフォーム工事は5月26日に始まり、6月15日には完了した。その時点で、日常生活の殆どは一階に移った。かくして、この日以降は、1、2回の衣装類の持ち出し時の初期の例外を除いて、雅子が二階へ登ることはなくなった。長きに渡っての日常生活の基地であっただけに、直ぐ上にある部屋に行けないということに、心中は如何なものかと一考は同情するのだった。
 この頃の歩きは、手を引いてサポートすることで、ゆっくりであったが、何とか歩行は可能であった。戸外を歩く際には、腕を組むようなサポートの仕方ガ雅子には歩き易いようであった。二人は出会い以降も、結婚後も、腕を組んで歩くと言うことは皆無だった。それだけに、こんな年齢になってから、そのポーズを取ることには、最初は戸惑いを隠せなかったが、そうしなければ、歩けないことから、次第に気にすることはなくなっていった。
 一方、室内での歩行は、「とんとんとん」と声を掛けることで、条件反射を使って、リズムに乗って比較的スピーディに歩けた。この場合、右手で雅子の右手を強く握ってやると安定して足が動いていた。
 しかし、7月には入ると、歩きの状況は更に悪化し、電車での通院にも困難が出始めていた。障害物に出会うと足の竦みが酷くなり、強く引っ張るか、後ろから押してやらねばならなくなり、転倒の危険性も増していた。
 その内に、身体のバランスがうまく取れなくなり、一人での移動は、難しくなった。転倒事例が目立ち始めたのである。例えば、7月19日には、寝室の入り口で転倒して起き上がれず、たまたま通りかかった久子が驚いて二階にいた一考を呼びに来た。7月23日には、洗面所で、8月2日にはトイレで手を洗おうとして転倒している。このような転倒回数の増加は、明らかに一考のサポートの手抜きによるものだった。それは、滋賀医大のモニターテストに対し、一考が「自分の手抜きのデータが反映される」という、自らが行なった主張を実証している結果になっているこに、忸怩たる思いを噛み締めるのだった。(以下、明日に続く) 

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180 歪み

 「歪」という漢字をよく見ると、「不正」と縦に書いている。なるほどと思いながら、最近の話題のニュースをみていると、日本中に「不正」は溢れかえっている。社保庁の手抜き、誤りなどの杜撰な運営は別格として、緑資源機構、こみ処理施設、橋梁、土木などの蔓延する談合の世界、介護のコムスンの不正請求、政治資金の使途不明金などの歪んだニュースのオンパレードだ。あのNOVAに至っては、急成長で「歪み」が出た結果の業務一時停止だそうだ。
 また、朝鮮総連の建物が、元公安調査庁長官の緒方重威氏が社長を務める「ハーベスト投資顧問」が購入しているというニュースは、何かが歪んでいて、深い闇に繋がっているのではとの見方もあるようだ。
 そういえば、国会運営自体が強行採決の繰り返しで、今の、日本は全体が歪んでいるようだ。安倍さん、頼みますよ。

連載(145) 難病との闘い 第六章 機能喪失の一部始終(2)

(1)よちよち歩きから車椅子へ
 パーキンソン病という病名を告知されたのは、02年11月半ばだった。その後、06年2月14日の病院からの帰宅時に、西大津駅構内で転倒し、左足を捻挫するまでの、3年3ヶ月間は、左手の動きがスムーズに動かず、不便は出始めていたが、歩行に関しては、支障は出ていなかった。結果的に言えば、この間は、病気の進行が水面下でゆっくりと進んでいたということになる。正直言って、一考も、この程度の病気なのかと油断していた。
 しかし、この捻挫が事態を大きく変えることになった。それまでのゆっくりしていた病魔の進行に刺激を与えたと思われる。端的に言えば、この捻挫という刺激が症状の悪化を加速したと言える。捻挫で「歩く」という動作を停止せざるを得なくなったことが、「歩き」の機能に大きなマイナスの影響を及ぼすことになったと考えられる。
 それでも、ギブスが外れた3月初めには、一旦はよちよち歩きができるようにまで回復していた。現に、三週間後の3月25日には、予てから計画していた三人の姉達と城崎へ温泉旅行には出掛けている。旅館では予約された部屋が二階にあったが、姉達の介添えで支障を克服して、楽しいひと時を過ごしていた。
 翌日、旅行から帰って来た雅子が、買ってきたお土産を、いつもお世話になっている近所の方に届けた際に、その門扉の前でバランスを崩して転倒した。これが、雅子にとっては、西大津駅構内での転倒以来、歩きに支障が出た最初の転倒だった。一考は、その転倒の影響を心配したが、幸い、それは杞憂だった。というのは、その翌日に、雅子と一緒に、運動を兼ねて散歩をしたのだが、結果的には10Kmの長距離を歩き切り、特に支障は認められなかったことで、ほっとしたことを覚えている。つまり、その時点では、付き添っていれば、雅子は一人で充分に歩けていた。
 しかし、非情な悲劇はその後、間もなく続いて起きた。お墓参りに行こうとして車に乗る際に、一緒に行く義母に手助けしようとして転倒し、その際に左手首を骨折したのである。4月3日のことだった。この骨折での再度のギブス生活が、悪化の範囲を広げ、その速度をアップすることになる。つまり、それまで、全く想定していなかった左足の動きにも大きな影響を及ぼすことになった。5月11日にギブスを外してもらったが、この頃から、明らかに手足の動きに不自由さが目立って来ていた。
 骨折治癒後の最初の通院時、5月16日のことだったが、電車やエスカレーターに乗る際に、その前まで来ると、足が竦(すく)むような症状が現れた。それは、それまでは見られなかった症状で、歩きに影響が出始めた具体的な事例となった。つまり、2月半ばの捻挫から、5月半ばの骨折治癒までの3ヶ月間での2度に渡るギブス生活が「歩き」にまで支障を及ぼす、大きな症状変化を起こすことになったと思われる。(以下、明日に続く)

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179 梅雨入り

 関西では今日辺りから梅雨入りだという予報が出ている。例年よりも遅いようだが、短くて済むとのようだ。雨量の確保は大事だがほどほどであって欲しい。介護に専念していると特にそう思う。
 ところで、安倍内閣だが、再び支持率が急降下していて、今や、梅雨の真っ只中にある。難問山積で、その手腕が問われている。特に、社保庁の驚くべき杜撰な実態は、安倍内閣だけの責任ではないが、そんなことは言ってられない。来る参院選が梅雨明けになるのか、大被害を蒙るのか、先行き不透明だが、誠意を持って、全力でピンチ脱出に頑張ってもらいたい。
 話は変わるが、あのよど号事件の犯人の二人の妻、森順子若林佐喜子の二人に逮捕状が請求されるようだ。欧州で、石岡亨さん、松木薫さんの二人を拉致した容疑だ。よど号事件は、今から47年前の事件だが、その記憶は今でも生々しい。どんな事情があったか知らないが、人の人生をもてあそぶことになった二人の拉致行為に、ふつふつと煮えたぎるものを感じる。梅雨のじめじめした不快感とは、全く比べ物にならない怒りの不快感が込み上げてくる。許せない。

連載(144) 難病との闘い 第六章 機能喪失の一部始終(1)

 2006年2月の捻挫、それに続いて起きた4月の左手首骨折が、雅子の症状の急激な悪化を誘発した。それが、日常生活で必要な重要な機能を次々と、目に見える形で奪ってきていた。
 急激な症状悪化に、一考は、急遽、社会保障のサポートを得るための手続きに奔走した。身障者手帳、特定疾患患者手帳は6月28日に、介護保険の適用は遅れて8月7日に、それぞれ申請手続きを行なった。同時に、母親がお世話になっていた近くの介護センターから、具体的なサービス関連のカタログを入手した。2006年7月21日のことである。
 上記各申請に対して、まず、特定疾患患者手帳が8月18日に、身障者手帳が10月5日に、介護保険証が10月7日にそれぞれ届いた。これらの適用を受けて、介護用ベッドや室内用の椅子などの搬入を10月18日に、また、室内の段差の解消や、握り棒の設置工事が11月10日にそれぞれ行なった。
 厄介だったのが、これらの申請の手続きで、それぞれ窓口が違って それぞれの書式による書類を作成しなければならず、加えて医者の診断書も、それぞれ違った書式のものが必要だった。吉田病院の春日医師が、学会などで超多忙であったことから、思いのほか手間取ってしまった。縦割り行政の弊害を改めて認識した。
 ところで、雅子の症状だが、2007年4月現在で、悲しく、かつ痛ましいことではあるが、何事も一人では出来なくなっている。自分一人で出来ることは、口に中に入れてもらった料理を食べること。チャンネルの変更は出来ないが、点けてもらったテレビを見て楽しむこと、便器に座らせてもらって、何とか用をたすこと、ベッドに寝かせてもらって、一人で眠ることぐらいである。但し、睡眠に関しては、途中で一旦目覚めると、再び寝着くのが難しく、そのまま時計と睨めっこして朝まで我慢していることが多いという。まさに、だるまのような手足がないような毎日を送っているということだ。
 このような雅子の症状悪化は、気の毒を通り越し、壮絶な闘いになっている。一考が救われるのは、それでも本人が笑顔を忘れず頑張って毎日を生きてくれていることだ。一考自身も、そのサポートで大変な毎日だが、自分がいなければ雅子は生きてゆけない訳で、別の意味で存在感、責任感、そして充足感を覚える毎日である。
 本章では、各種の必要な機能が、どんな具合に、どんな時系列で喪失して行ったかを、機能別に出来るだけ詳細に取り上げてみようと思う。それは、取りも直さず、機能喪失の一部始終である。(以下、明日に続く)

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178 拉致被害者家族の心中や如何

 北朝鮮のドン、金正日の健康状態が云々されている。30ヤード歩くのが困難だとか。心臓病だと言われているが、どんな具合なのか。後継者は? こう着状態である拉致問題はどうなるか。前向きに進むのか、永久に蓋をされてしまうのか。
 今や、拉致被害者家族の心中は複雑であろう。政変が解決に繋がることもないとは言えないが、楽観するような情報は何もない。金正日が人間であるならば、せめて、死ぬ前にはこの問題の全てを明らかにして、被害者家族の希望をかなえて欲しいと願うものである。
 そんな時、あの中山恭子さんが参院選に出馬する。大人しそうな彼女の応接振りの中に、強い筋の入ったものを感じるのは筆者だけではあるまい。力を持っていることは確かであり、その手腕には期待したいと思っている。
 しかし、その一方で、あの時の彼女のとった応接姿勢が印象深く筆者の脳裏にこびり付いている。それは、5人の拉致被害者が羽田空港に帰国した際、タラップから下りてきた時の一シーンである。二組の夫婦の後に続いて一人で下りて来たのが、曾我ひとみさんだった。その時の中山さんは、最初に降りてきたご夫婦に並んで嬉しそうな顔をしていた。筆者は、この時、中山さんは、一人であった曾我さんを介添えして下りて来られるべきだったと思っている。そうしたら、彼女の真のやさしさが出ていたはずだ。筆者は今でもそのシーンを忘れないでいる。

連載(143) 難病との闘い 第五章 衝撃の症状悪化(32)

 話は少し前後するが、8月の定期診断時に、春日医師から滋賀医大の研究生が、この種の患者の病気の進行に関する研究しているので、そのモニターになってもらえないかと要請された。この病気で困っておられる方に、少しでも役立つことであれば協力に吝かではないというのが一考の考えだったことと、他ならぬ春日医師からの要請だということで、躊躇なく「協力させて頂く」と返答した。
 その日は、珍しく待ち時間が短く、早く診断が終わっていたのだが、研究者と称する二人の女性が現れたのは、それから1時間以上も待たされた後だった。それだけに、一考は少しいらついていた。連れて行かれた2階の小さな部屋で、例の「認知症の確認質問」から始められた。「100-7」から始まる暗算などの馬鹿馬鹿しい質問の連続で、「また、これか」と、一考のいらつきは高まっていた。
「近いうちに万歩計をお送りしますから、一週間、歩いた歩数と、転んだ回数を記録いただきたいのです」まだ学生と思われる女性の研究員からの具体的な依頼だった。歩いた歩数と転倒した回数から、病気の進捗度をみようというようで、一考は、そんなことで、何かが分かるとは思えなかった。
「今の症状では、きちんとサポートをしていれば、転ぶことはないと思いますよ。私が、サポートを怠れば、確かに症状の進行と転倒回数は相関があると思いますが。これは、いわば、私のサポートの丁寧さをチェックするということになるのではありませんか?」一考のいらつきが、彼女らの研究に、いちゃもんをつける形になっていた。
「おっしゃることも分かりますが、これはこれで、それなりの意味があるのです。お一人のデータだけを見るのではなく、何人かの患者さんの全体の動きを捉えることで、一つの傾向が出てくるのです。ともかく、ご協力をお願いします」女性から、そう言われると、それ以上議論を吹っかけるのは良くないと、一考は黙ったまま頷いた。
 それから2週間後に、万歩計が届いた。9月の定期診断日まで一応、言われたままに歩いた歩数と転倒回数を記録し、次の診断時に来院していた彼女達に報告した。その際にも、こんなデータに意味があるとは思わないと再び一考は私見を披露した。
「相坂さんは、技術屋さんだったのでしょうか?」
 研究生のそんな問いかけを無視するように、一考は曖昧に答えた。実際には技術系の出身だったが、そんなことで、議論を蒸し返すのも意味がないと思ったからである。
 このモニターは2007年4月現在も継続中で、3ヶ月ごとにデータの報告を電話で行なっている。このところの症状の悪化で、一考のサポートがあっても転倒することが起きるようになり、彼女達の調査にも必ずしも意味がないとは言えなくなっている。一考も、その意味では言い過ぎた面があったと思う今日この頃だ。(この章は終わり。明日からは第六章 機能喪失の一部始終です)

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177 誠意が伝わらない弁明

 おでこが広くて、がっしりとした顔を、昨日のテレビ各局が取り上げていた。グッドウィル会長、折口雅博氏の弁明が繰り返し放映されたが、心からの誠意が伝わって来なかった。今朝も、TBSの「あさズバ」に出演中だ。逃げずに出て来る勇気は買うが、これだけでまくられると食傷気味だ。
 あくまでも悪意がなかった。事務的なミス、違法ではないとの判断だったとの主張は、やはり、説得しに欠ける。ワンマン企業のトップが何も知らされていなかったということはあり得ない。
 自分も、今、妻の介護に明け暮れている。今のところは、介護ヘルパーさんの手を借りずに、何とか自分で済ませているが、正直言って、体力的な衰えもあって、何時まで自分が対応できるか不安がある。いずれ、介護ヘルパーさんのお世話にならなければならない。そんな意味で、介護を扱ってくれる企業の存在の重さを実感している。
 企業であるからには、然るべき利益を求めることは当然であるが、介護と云う弱い人間を対象とする特殊なビジネスである以上、それは、適切な、合法的な範囲でのものであって欲しい。
 大阪ローカル放送だが、昨日の「そこまで言って委員会」という番組で、東大出のタレント「高田真由子」が「両親の面倒は子供が責任を持つべきで、介護ヘルパーなどに預けるなどはもってのほか」と一見、かっこいい発言をしていた。これは、実態を知らない日和見的な考え方で、子供たちにも、そうしようとしても出来ない実態がある。つまり、介護施設にお世話にならざるを得ない実態があることを知って欲しい。しかし、今の高田真由子には理解は無理で、自分がその立場になって初めて分かる。机上の正論はあまりぶたないで欲しい。

連載(142) 難病との闘い 第五章 衝撃の症状悪化(31)

 そこから、奥琵琶湖パークウエイに入るつもりであったが、進入禁止になっている。がっかりして、その辺りの方に尋ねてみると、先の台風で途中に崖崩れがあって、暫くは回復の見込みはないということだった。
 仕方なく、諦めて、来た道を大浦に戻り、そこからJR永原駅に出て、ここで休息を取った。一考は、この駅舎が気に入っていた。ローカル色豊かで、落ち着いた雰囲気を漂わせている。下見調査を兼ねて雅子にトイレを勧めた。身障者用のそれを使ったが、清潔で気分も良い。これからも、使えるということで、二人はそれとなく頷いて暫しの休息を楽しんだ。
 その後は岩隈トンネルを通り、藤ケ崎を回って飯浦に出て、そこから賎ガ岳トンネルを通り、大音から片山トンネルを抜けると琵琶湖の東岸に出た。そこからはさざなみ街道を一気に南下、長浜、米原、彦根を経て近江八幡へ。この間、幾つかの「道の駅」があったが、いずれも立ち寄らず、一路大津を目指す。この辺りから天候が崩れ始めていたので、長命寺へは湖岸の山岳コースを避けて、内陸のコースを走った。案の定、長命寺に出る辺りでは、雷を伴った豪雨になっていた。力いっぱいにフロントガラスを拭うワイパーの先を懸命に見続けながら、しっかりとハンドルを握るが、視界が利かず、少々不安を抱いてのドライブとなった。
 それでも野洲を過ぎる頃から、雨脚も弱まり始め、草津に入ると、どうやら雨は上がっていた。そこからは、近江大橋に出て西大津に戻った、後半は、雷雨で慌しいドライブとなったが、それなりの気晴らしにはなった。およそ6時間のドライブだった。多少の疲れはあったが、雅子の気分転換には予期以上に効果的で、自らもそれなりの達成感も得られたことに満足した。
 それに味を占めた訳ではなかったが、ほぼ二週間後の8月24日にも、二回目の琵琶湖一周に挑戦した。この時には、風車村や幾つかの「道の駅」にも立ち寄って、前回の補完をしたが、白髭神社では、またもや立ち寄りに失敗して、宿題を次回に持ち越した。この時も、ほぼ6時間少々での一周だった。(以下、明日に続く)

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176 桑田投手メジャー昇格の快挙

 社保庁の驚くべき杜撰さが明るみに出て、その対応策が喧しく議論されている。5000万件、1400万件という、とてつもない対象数を相手に闘う訳だから、本当に一年間で解決の見通しが立つのか、不安は拭えない。関係者の今後の闘いぶりを注視してゆきたい。
さて、闘いという意味では、今朝のNHKのニュースで、パイレーツのマイナーリーグにいた、あの桑田真澄投手がメジャーリーグに昇格することが決まったという。39歳という高齢のうえ、思わぬ事故など苦しい闘いを強いられだが、それらに見事に打ち勝った訳で、これは快挙と云うべきものだろう。大きな期待は無理だろうが、これからの活躍を見守りたい。
 今、スポーツの世界では、世界の舞台で闘っているアスリートは多い、相変わらず安定した活躍を見せるイチロー松井秀喜、予期以上の活躍を見せている岩村明憲選手、岡島秀樹投手、今一つ吹っ切れない松坂大輔投手など米大リーグの日本人選手達の活躍は、毎日の話題に事欠かない。ただ気になるのは、今、その動向がはっきりしていないヤンキースの井川慶投手だ。
 野球以外でも、全仏テニスのダブルスで二年連続準優勝の杉山愛選手もあっぱれだ。一方、直ぐにでも優勝すると言われて久しい宮里藍選手は、今週も全米女子オープンで予選落ちとなって苦労している。
 悲喜こもごもといえばそれまでだが、本人達は必死になって闘っていることは確かだろう。政治家、社保庁、およびその関係者の皆さんも、必超党派で死になって、現状の難問題の解決のために頑張ってもらいたい。
 
連載(141) 難病との闘い 第五章 衝撃の症状悪化(30)

 30分ぐらいの渋滞を抜けると近江舞子に出た。再び、湖岸沿いに出て北小松に向かう。琵琶湖が目の前に望める部分と建物などで遮られて眺望が利かない部分が交互に続く。やがて眺望が一気に開けた。気分は爽快である。間もなく、湖の中に赤い鳥居が立っているのが見えて来る。白髭神社の鳥居だ。シンプルで鮮やかな絶景だ。一考の好きな場所のひとつである。雅子も、思わず「ああ、きれい」と声を出す。赤い鳥居が直ぐ左手にぐんぐんと近づいて来る。
 「少し、寄って行こうか」と一考が雅子の反応を伺った。道は、少し左に弧を描いたカーブになっていて、その弧が最も湖に突き出た先に赤い鳥居が立っていた。道を挟んでその鳥居の真正面、つまり、進行方向左側が白髭神社だ。狭い駐車場が確認できたが、何処から入るのかを、目で探しているうちに「あっという間」に駐車場への入口を通過してしまった。後続の車が数台続いていたので、あっさりと諦めてそのまま直進を続けた。この辺りはわき見運転も多く、事故が多いエリアだと「ぐるっと琵琶湖サイクルライン」の地図にコメントされていたが、その通りで、うかうかできないエリアだと一考は自らに言い聞かせた。
「いかん、いかん。あっというに通り過ぎちゃった」一考が照れ臭そうに言うと、雅子は、「無理しなくていいのよ」と神社への立ち寄りに執着することもなく笑って答えた。
 そこから少し進んだところにある乙女が池を過ぎ、更に進んで大溝橋を渡ったところで161号線を右折し、湖岸沿いの、安曇川、今津線、別名、風車街道に入る。ここからは、車の数も極端に少なくなって、運転にもゆとりが出る。ほとんど、貸切の道を一人で走っているような感じだ。こどもの国の標識が目に入ったが、そのまま直進、風車村に向けて快適に突っ走る。
「どうだい? トイレは大丈夫かい?」気を使って一考が声を掛けた。風車村にトイレがあることが調査済みだったからである。
「ご心配なく。今は、まだ大丈夫」雅子は、そっけなくそう言って一考の顔を見た。
「どっちにしても、風車村に寄ってみようよ。休憩だ」
「まかせるわ」雅子の返答に、一考は風車村への入口を示す看板を探していた。ところがである。ここでも、その看板を見つけたと思ったところで、既に通り過ぎていたのである。しまったと思ったが、今更、バックするのも面白くない。
「ごめん、ごめん。また、やっちゃった。初心者はゆとりがないね」
「思ったよりも、粗雑なのね」
 そんな具合の珍道中で、二人は、先を目指す。車は、今津浜を一気に抜けて、マキノから海津湊に入った。そこからは、風光明媚な海津大崎を回る湖岸に入る。道は細いが車の数も少ないので、運転にはそれほど気を使うことも無い。さくら並木が湖岸に沿って続いていて、春に来ればさぞかしと思われる。前年の歩行時に、えさを探している猿に出会ったのは、その辺りであったが、今回は姿は見当たらない。その内に、崖をくり貫いたトンネルを5つ抜けてドライブを楽しんでいると、やがて大浦に出た。(以下、明日に続く)

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175 忠誠心

 昨日、コムスンの親会社のグッドウィルグループの折口雅博会長らが記者会見した。その中で、社長の樋口公一社長が「全ての責任は私にある」と会長を守ろうとする忠誠心を見せた。見ていて大変気の毒に思った。このようなワンマン会社で、トップに報告し了承を得ていないということは有り得ないからだ。
 親分を守ろうとする部下の忠誠心は如何にも日本人らしさがあって、ドラマとしては一つの形ををなすかも知れないが、今の世の中では、とうてい受け入れられるパターンではない。企業の真の理念があるとするならば、そんなごまかしは通じないことを知るべきであろう。介護と云う社会的に大きな使命を持つ事業だけに、ごまかしはいただけない。
 かく言う自分も、かつては、公正取引委員会からカルテルの疑いで踏み込まれ、尋問を受けた際には「部長は知らないこと」とかばったことがあった。サラリーマンの悲しい性かもしれない。

連載(140) 難病との闘い 第五章 衝撃の症状悪化(29)

 その朝、9時過ぎに自宅をスタートした。8月12日の土曜日である。曇り空だったが、午後からは晴れると言う天気予報だったし、雅子の様子も悪くないということの決断だった。この日の雅子の症状は、手を引いて身体をサポートしてあげることで、よちよち歩きは可能だった。
 スタートに先立っては、特別な事前の準備は何もしていない。出発前に二人ともしっかりとトイレを済ませていることぐらいだった。自宅からは、近江神宮へ続く参道を下って直ぐに国道161号線に出て、それを真っ直ぐに北上する。比較的車の往来も多く、運転には注意が必要だ。しかし、気分は何となく軽やかである。スタート直後は、雅子も、一考の運転に不安そうにしていたが、そのうちに、久し振りの遠出ということで、気分も軽くなってきていた。
 ところで、一考には5人の姉妹がいるが、その内の何と4人が、この国道沿線に住んでいる。親思いというのか、親離れできないのか、その両方なのか分からないが、生まれ育った土地から出たくないような連中ばかりだった。五女の良美はJR西大津駅の前のマンション住まいで、実家には歩いて10分程度の近くにあるが、それ以外では、久子が唐崎駅近辺、長女の綾子が比叡山阪本駅近くに居を構えている。車は10分そこそこでそれらの付近を通過、間もなく左手に大観覧車がある堅田を通過すると、三女の奈美子の家族が住んでいる和邇は直ぐ先である。進行方向左側に琵琶湖がちらちらと垣間見えて、心を和ませてくれる。
 その和邇付近を一気に抜けると、JR湖西線の高架を潜って一旦琵琶湖の湖岸沿いから山側に入って、JRの西側を近江舞子まで走ることになるが、途端に車が込み出して渋滞状態になった。近くの琵琶湖バレイからの車が流れ込んで増えたからであろう。元々、運転を得意としない一考には、こういった渋滞の方が、スピードを出すこともないだけに安全運転ができて、気分は落ち着くのだ。暫くは、ゆったりとしたドライブで、雅子も、その方が安心できるようで、二人の会話も弾んだ。(以下、明日に続く) 

タグ : コムスン 折口雅博 樋口公一

174 言葉の遊び

 ハイリンゲンダム・サミットで、注目されていた地球温暖化対策に関して、2050年までに半減を目指して「真剣に検討」するという表現で合意したという。各国の主張を最大公約数的な言葉でくるんだ結果で、見方によっては、単なる言葉の遊びと言えるような結論となった。先進8カ国のトップが集まって、この程度の結論を出すサミットに意味があるのだろうかとさえ思う。
 昨日、大阪で横山ノックさんのお別れ会があって、島田紳助さんら多くの芸能関係者が出席して別れを告げたようだ。その中で、久ぶりに上岡竜太郎さんのあの流暢な挨拶を聞いて、同氏の健在振りを知った。言葉を生業とした人だったが、今でもその「技」は、その挨拶の中で見事に生きていた。リズムカルに繰り出される立て板に水の如き口調には、余人をもって代え難き見事さがあった。今、言葉をもてあそぶ業師の第一人者の島田紳介とは、一味違う「技」である。言葉の遊びも、そこまで芸術性が高まれば言うことはない。

連載(139) 難病と闘い 第五章 衝撃の症状悪化(28)

 雅子をドライブに誘って気分転換を図ろうと考えたのは、散歩やカラオケが出来なくなって、他に気分転換を図る適当な名案が浮かんで来なかったからの単純な発想だった。その時、頭に浮かんだドライブコースは、琵琶湖一周のコースだった。そこには、滋賀県人としての単なる琵琶湖への愛着だけではなく、前年の6月に、5日間をかけて懸命に歩いて一周したという体験が大きく、そこから芽生えた、わが子のように慕う琵琶湖への愛着に立脚していた。
 琵琶湖への一考の思い入れはその後も深まり、歩き切った三ヵ月後の10月には、恰も、わが子を慈しむように、歩いた道を車でなそって、そのルートをじっくりと検証した。その時には、奥琵琶湖のパークウエイや余呉湖へも足を伸ばして、静かなローカルエリアの景色に心を和ませた。もともと、車の運転は自分の性に合わないということで、苦手としていたのだが、不思議なもので、この頃には妙に馴染みと余裕も出て来て、一考自身が運転による気晴らを楽しむゆとりも出てきていた。いずれ、雅子と一緒に走ってみようとの思いも、その頃から醸成されていて、後になって、それは、その下見を兼ねたものと位置づけるようになっていた。その時の所要時間は、ゆっくり走って6時間そこそこのドライブだったが、その頃は、その程度の時間なら、雅子は一人で家で待っていることにも支障がなかったのである。
 しかし、それから一年が経過、歩きも一人では難しくなり、両手の動きも不自由になった雅子を同乗させて、6時間も掛かるドライブを実行するとなると、いろいろと配慮が必要だった。先ず、雅子の体調が順調であること、天候も雨の心配がないこと、更には、母親の食事を準備する必要がない日で、他に、通院、来客の予定のない日でなければならず、思い付きで「じゃあ、行こうか」という訳には行かないのだ。
 毎年、お盆の頃になると、静岡にいる四女の美希子が子供を連れて里帰りする。この年も10日に戻って来ていた。美希子がいてくれる間は、母親の食事は彼女がやってくれるので、一考はフリーになれた。しかも、この期間だけ、久子も顔を出さない。いや、正確に言うと、久子は出て来たいのだが、美希子が自分がいるのだからと、来る事を拒否するのだ。5人の姉妹の中で、この美希子だけが久子に堂々と物が言えるようで、久子も不承不承出て来なくなった。一考らにとっては気分が安らぐ期間なのだ。そんな訳で、ドライブのチャンスはその期間に実施しようと一考は考えていた。(以下、明日に続く)

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173 厚労省にズームイン

 新たに、年金記録が最大1450万件入力されていないことが判明した。先の5000万件に加えての手抜きである。社保庁はどこまで腐っていたのか、呆れて物が言えない。自分達の仕事がどんな役割を担っていたのか、理解せずにいたとしか思われない。社保庁の人が皆、馬鹿に見えてくる。
 一方、訪問介護事業の大手のコムソンに不正請求があったということで、厚労省は指定打ち切りに踏み切るという。コムソンの親会社は全事業をグループ内の会社に全事業を譲渡して対応するという。これにより、6万人の利用者に影響が出ないようだが、看板の架け替えで対応する経営姿勢には疑問だらけだ。
 この事業は、他のビジネスと違って、直接、弱い立場の人間を対象にしたサービス業であるだけに、単なる利益追求の姿勢での対応では、顧客を満足させられず、何よりも心のこもったサービスが前提である。経営者を始めとする全従業員、介護担当者の心ある対応を切望するものである。筆者の母親、妻の雅子が、このビジネスにお世話になっているだけに、心境は複雑である。
 そんな中で、出生率が6年ぶりに上昇に転じ、1.32になったという。低下傾向に歯止めが掛かったことでほっとする報告だ。昨年、騒いだ野党のコメントを聞きたい。

連載(138) 難病との闘い 第五章 衝撃の症状悪化 (27)

 気晴らし作戦で思いついたのが、カラオケへの挑戦だった。思い切り声を出して発散するのも悪くは無い。どこへ行くかを迷ったが、車で浜大津付近を走っていて看板を見つけてそこに飛び込んだ。駐車場から、エスカレーターで二階に上がったところにあったが、このエスカレーターの乗るのに一苦労した。例の足の竦みが起きてスムースに乗れない。少し、強引に引っ張り上げるようにして何とか店に入った。
 一考自身もカラオケは嫌いじゃなかった。現役時代は仲間とよく行って歌った。音痴だと自覚していた一考だったが、何回も行くうちに得意な歌もできて、リップサービスだったろうが、リクエストももらうようになっていた。低音の響きが印象よくて、音痴の部分を打ち消していたのだろう。
 しかし、雅子はなかなか歌おうとはしなかった。かつては、上京して来た際に連れて行ったクラブで、一考の知らないような流行の歌を披露して驚かせたこともあったが、二人だけのカラオケでは歌い難いようだった。それでも、一考が、適当に選んだ歌を勧めたことで、渋々マイクを握った。久しく歌ったこともなかったようで、うまくリズムには乗れなかった。それでも、何曲かトライし、気分転換には役立ったようだと、一考は解釈していた。それよりも、一考が気になったのは、マイクの握り方のぎこちなさだった。右手にまで病魔が進出してきていることが見て取れた。2006年6月23日のことだった。
 ほぼ一週間後の29日にも、雅子を誘って同じカラオケ店を訪ねて気晴らしを図ったが、雅子は前回よりも消極的で、ほとんど聞き役に回っていた。マイクの握りだけでなく、座っている姿勢でのバランスを取り難そうで、落ち着かないようだった。加えて、このビルにはエレベーターがなく、その店への出入りにはエスカレーターを使うしかなかったことで、その乗降に梃子摺る状態になっていたこともあって、結果的に、この店に来るのは、この二回目が最後となった。しかし、年が明けて、雅子の姉妹達が家に携帯カラオケを持ち込んで楽しむ機会を作ってくれることになる。やはり、声を出すことが、気分転換にいいと彼女達も考えたようだった。(以下、明日に続く)

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172 ハイリゲンダム サミット

 今日から、ドイツのハイリゲンダムサミットが始まる。安倍首相は「環境問題」と「北朝鮮問題」に強いメッセージを送るという。国内での支持率が大きく低減する中で、その回復への一つのチャンスであることは確かである。
 安倍総理は、それに先立って、地方遊説の一環として、4日に滋賀県を訪れた。嘉田知事との会談で「世界の水問題を考える上で、琵琶湖対策から学ぶ点は多い」と、知事の環境問題の詳しさに敬服したという。サミット環境問題を訴えるための、参考になる予備知識を仕入れたようだった。
 ただ、筆者は、首相が滋賀県を訪ねて来たことを後でニュースを見て知った訳で、この辺りの事前のPRが、県民に充分でなかったことは残念だった。安全の面からの配慮があったのかも知れないが、県民にもより多くの接触のチャンスを作って欲しかった。
 いずれにしても、そう安倍総理環境問題で米欧の橋渡しがどの程度可能なのか、その手腕を注目して見守りたい。

連載(137) 難病との闘い 第五章 衝撃の症状悪化(26)

 雅子の身体の重要な機能が順次失われて行く厳しい悪化が進む中で、一考は、このままじっと部屋に閉じ篭ってしまうようなことになってはいけないと思い始めていた。少しでもいいから、気分転換になるような機会を持つ必要性を感じていた。
 そんな時に、雅子のいつもの友人達から、やさしい気配りをもらうことが幾度かあった。何と言っても、気心がしれた仲間との歓談が、気分転換には最も効果的だった。中でも、近くにお住まいの前田さんの配慮には、格別のものがあって、一考も大いに感謝していた。前年は、まだ何とか自分で歩くことも可能であったので、二ヶ月に一度の割合で、外に連れ出してもらった。今年(2006年)に入ってからも、お正月明けから、市内のデパートへの買い物とか、家に呼んでいただいての昼食会などの機会を設営してもらって、楽しいひと時を過ごしていた。
 しかし、悪夢は、あの足の捻挫と手首の骨折だった。それが雅子の症状の悪化を極端に早めた元凶となった。お正月明けには一人で何とか歩けたものが、連休明けには、手を引いてサポートしないと歩けなくなってきていたのである。
 そんなことで、お友達も、暫くは、雅子の症状の様子を見るといった期間が続いていたが、7月半ば(18日)には久し振りに、前田さん宅にほかのお友達も集めていただいて、懇親会を開いてもらった。
 その時には、一考が、雅子を送り迎えをしたのだが、生憎のかなり強い雨の中だったにもかかわらず、皆が出迎え、見送りをしてもらった。そこでは、一考が幾ら努力しても与えられない楽しい歓談の場を楽しんだようだった。持つべきものはやはりいいお友達だということを身を持って感じていた。
 それから二ヵ月後の9月半ば(19日)にも、近くのレストランで、いつもの友人達に集まってもらって昼食会の場を設営してもらっている。送り迎えはもちろんのこと、レストランでは、皆がかわるがわるに食事を食べさせてもらったり、至れり尽くせりのサポートで、心から発散できる楽しい場を得たようで、家に戻っても気分は上々だった。
 話は少し遡るが、一考は、このまま雅子の病状の悪化が進めば、いずれ、歩くことが出来なくなる日が来るかも知れないと思い始めていた。6月に入った直ぐの頃である。歩けるうちに、可能な限り歩いて気分転換を図ることは、今しか出来ないのではと思うのだった。
 ともかく、歩いてみようということで、二人でゆっくりと手を取り合って歩くことにした。極近くの柳ヶ崎の湖岸までの散歩を試みたが、無理だと分かり直ぐに諦めた。振り返ってみると、三月半ば過ぎに姉妹達と城之崎への小旅行から帰った翌日には、遠く浜大津を通り抜けて5Km先の湖岸までの往復10Kmを歩いたことが思い出された。僅か、2ヶ月少々でこれほどまで症状が進むとは、二人にとっても全くの想定外だった。(以下、明日に続く)

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171 もう一人の王子

 東京六大学野球で完全優勝を果たした早稲田の齋藤佑樹投手の挨拶を、今朝、たまたまワイドショーで見た。結構、楽しそうに話していて、今まで抱いていた「ハンカチ王子」のイメージを拭ってくれた。話す際の「間」の取り方もうまく、3分44秒に渡るスピーチはユーモアに溢れていて好感を持った。「今はイメージを壊せない」と言いながら、既に壊しに掛かっていたのが面白い。
 一方の高校生ゴルファーの「ハニカミ王子」の石川遼君は、関東アマチュア選手権に出場しているが、出だしのバーディーといい、途中での長いチップインバーディを見ていると、さすがに非凡で将来性のある選手であることが窺える。
 筆者が驚いているのは、二人の王子とも、多くのギャラリーを動員させる力と人気があることだ。同時に、それに直ぐに反応してついて回るファンの多さにも驚いている。要するに、ヒーローの出現を期待している多くの国民がいるということが実態のようだ。目下、社保庁で躓いて苦戦している安倍内閣は大変なピンチだが、ここでしっかりとしたヒットを飛ばせば、動かされ易い国民が多いだけに、まだまだ回復のチャンスはあるはずだ。
 そこで鍵を握るのが、前総理の小泉純一郎氏である。同氏の存在感は今でも大きく、国民を動員する力は、二人の王子以上だ。安倍総理には、もう一人の「王子」として、救いの決め手になるかもしれない。小泉ファンの筆者はそれを密かに期待している。

連載(136) 難病との闘い 第五章 衝撃の症状悪化(25)

 結果的には、特定疾患患者手帳(難病認定)の方が先に届いた。申請後およそ一ヶ月半後の8月18日で、思ったよりは早い入手だった。一方の、身障者手帳は、診断書の記入が不十分であったため、再記入が必要となって病院に差し戻されたため、手帳が入手できたのは、ずっと遅れて、10月6日になってからだった。何しろ、春日先生が超多忙で、診断書の作成に時間がかかっていたからである。
 ところで、介護保険の認定であるが、65歳以下でも、その必要性が生じた場合には、申請できるのだったが、一考の知識不足で、何ら手を打っていなかった。8月に入って、たまたま、雅子の姉の霧子さんからのアドバイスがあって、急遽適用申請を行なった。
 そこで分かったことは、この介護保険の取り扱い窓口は、市役所の高齢福祉・介護課で、身障者手帳の窓口とは別である。一考の「急いで」という訴えが、幸いにも聞き入れられて、翌日には専門家の来訪を得て、審査が行なわれた。また、幸いにも、この場合には、春日医師の診断書も速やかに作成頂けたことから、手続きは順調に進み、10月初めに保険書が届いた。
 かくして、身障者手帳特定疾患患者手帳 介護保険の三種の神器が揃ったことで、それぞれに基づく幾つかの助けになる特典、サービスを受ける準備、手続きを開始することになった。
 最初に受けた恩恵は、特定疾患患者手帳の入手で、医療費の負担が大幅な軽減をされたことだ。手首のジストニア(固縮)を柔らかくする高価な治療費が軽減されたことは有難かった。また、お薬代がその恩恵を受けたことも大助かりだった。
 次に、受けたサービスは、介護保険認定による各種サービスである。介護用具の賃貸、手摺や段差解消工事などのサポート、ショートステイなどのサービスを受ける権利が得られて、早速、ケアーマネージャーのアドバイスを得て、順次、具体的なサービス提供を頂戴することになった。詳細については、後述の予定である。
 もう一つの身障者手帳では、介護保険のサービスが優先されるために、限られたサービスになるが、ガソリン代の割引サービスが得られたことや、障害者基礎年金への申請が可能になった。
 この他にも、滋賀県内で有効な「福祉慰労費受給券」を頂き、マッサージのサービスを格安で受けることが可能になった。これは、今後、大いに活用させてもらうことになる、
 いずれにしても、今までは、税金を払う一方であった立場から、税金の恩恵を受ける立場になって、社会保障制度の有り難さを実感しつつある。大きな不幸の中にいるが、小さな幸せを味わさせて頂いている。(以下、明日に続く)

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170 支持率急落

 今朝の報道で、週末に各メディアが行なった安倍内閣の支持率が発表されているが、いずれも、安倍内閣発足以来の最低の数字が出ており、不支持率が上回っている。ピンチであることには間違いないが、そんなにばたばたすることもなかろう。
 この場合の支持率というのは、野球で言う打者の打率のような実態をそのまま正確表している数字ではない。現在行なわれている政治の状況を判断した数字で、政策が浸透し結果が出てくるのはこれから先だ。数字の中には、それまでを深く読んだものはそれほど多くはない。
 そういう意味では、今やっている政策をしっかりと実行に結びつけることが大事だ。国民はそれを然るべく評価するはずだ。国民を信じて、自分の志す政治に全力を挙げて頑張って欲しい。
 別件だが、今朝の日経でロシアのプーチン大統領が北方領土問題の解決は困難だと発言したとの報道がある。中国にしろ、韓国、北朝鮮など日本を取り巻く隣国の狡猾さには、いつも腹立たしさを覚えて仕方がない。歴史上で、日本だけが未だに、先の大戦での敗戦国として、執拗な虐めを受けている現実に怒りを覚えている。

連載(135) 難病との闘い 第五章 衝撃の症状悪化(24)

 2006年5月29日に、身障者手帳と特定疾患患者手帳の申請手続きなどの詳しい話を聞くために、一考は勇躍として市役所に出向いた。自宅から車で5分程度の近い距離にある。総合受付で担当の窓口を確認すると、身障者手帳については、市役所の障害福祉課が窓口だったが、特定疾患患者手帳(難病認定)については、市役所ではなく、保険所の扱いであると教えられた。
 そこで、直ぐに2階にある障害福祉課を訪ねて、身障者手帳について、その申請手続の方法などを聞いた。担当してくれた人は思ったよりも親切で、分かり易い説明をしてくれた上で、申請に必要な書類を手渡してくれた。
 一考は市役所を出ると、その足で保険所に向かった。大津保険所は湖岸沿いの通りを石山方面に進んで、プリンスホテルへの入り口の二、三本手前の通りを、琵琶湖寄りに入った一角にあった。市役所からは車で10分少々の近い距離にある。一考は、ここでも、申請手順などに関し、親切で丁寧な説明を受け、必要な書類を入手した。
 二つの窓口で感じたことは、身障者ということで、その立場を慮った親切さ、やさしさが窓口の担当者の姿勢に表れているようで何となく嬉しかった。
 ところで、この二つの申請には、それぞれ、幾つかの書類や写真、戸籍抄本、医師の診断書などを準備する必要があったが、その中で、医師の診断書が、いずれの場合にも、その認定の鍵になるものと思われた。この二つの診断書は、形式が違っていて、それぞれ、別々に作成してもらう必要がある。それだけに、多忙な春日先生の対応が心配だった。
 この時点では、一考は、この種の社会保障の全体像についての知識を持っていなかったことから、介護保険の認定申請については、一考の頭の中は欠落していた。つまり、一考の対応は、断片的な知識に基づく、いわば、パッチワーク的にもので、超非効率な泥縄式での対応だった。
 ともかくも、一考は、翌々日に吉田病院に二つの種類の診断書作成を依頼した。しかし、肝心の春日先生は、案の定、超多忙で、診断書を入手できたのは一ヵ月後の6月27日だった。その翌日、他の必要書類を揃えて市役所と、保険所にそれぞれ申請を行なった。そこでの説明では、手帳の入手には、多分、2~3ヶ月は掛かるだろうというのんびりしたものだった。
 一般論として、この種の申請者は急いでいる場合が多いはずである。折角の有難い保障体制も、手続きで数ヶ月も掛かるようでは、患者のニーズにタイムリーに適用できない。この辺りのスピードアップが、もう少し何とかならないものかと思う一方で、立場を変えて考えると、貴重な税金を使わせて頂く訳だから、それなりの慎重な審査は避けて通れないことも確かであって、一考は複雑な心境だった。
 それにしても、身障者をサポートするという同じ目的を持つ制度でありながら、縦割り行政の弊害で、多くの利用者は不便を感じているはずだ。取り扱い窓口が異なり、申請書類の重複があり、いろんな形式の診断書作成を依頼しなければならず、その辺り、もう少し何とかならないものかと、一考は、自分が当事者になって初めてその不便さを実感したのである。特に、今後、定期的な更新毎に、診断書作成は必要であるだけに、一枚の診断書で全てをまかなえる制度への改革を是非検討して欲しいとの思いを強くするのだった。(以下、明日に続く)

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169 5000万件処理

 「5000万件」聞くだけでうんざりする件数の多さである。そこまで放置しておいた社保庁ってなんだったのか。あきれて物が言えない。この扱いに関する昨今の喧しい議論は、その大半が建設的なものではなく「菅直人だ」とか「小泉純一郎だ」などと実質的に意味のない責任論が飛び交うのを耳にすると、救いようのない空しさを思えるばかりだ。
 本当に見直し、照合がが可能なのか、素人目には疑問は消えない。そのためのコンピューターシステムの開発が必要になるのではとも思う。いずれにしても、そんな簡単に解決される課題ではない。そうかと言って、それを投げ出してもらっては困る。超党派で知恵を出し合って、出来ることから片付けてもらうしかないだろう
 今年の初めに、妻の年金の件で、大津の社保庁に相談に行った。30分ぐらいの待ち時間で、対応はそこそこ丁寧だった。一人一人の所員の方を見ていると、そんな杜撰なことをしているとは思えなかった、しかし、改めて、ここが世間で話題になっている「けしからん社保庁」かと思うと、やはり、組織およびトップにに欠陥があるということなのだろうと思うと同時に、申し訳ないが、所員の方までが賢く見えなくなってくる。
 その時の相談で、妻の雅子の障害者基礎年金と厚生年金の件で相談したのだが、前者は速やかな対応を頂いているが、後者の件では、受給の資格ありと確認されたが、他の年金との関係を確認するまで暫く待って欲しいということだった。しかし、いまだその後の連絡はない。いつまで待てばいいのか、暫く様子をみることにしている。

連載(134) 難病との闘い 第五章 衝撃の症状悪化(23)

 こうして、目に見える形で大事な能力、機能が失われ、不自由になって行く中で、人様の優しさ、温かさを感じることも増えていた。例えば、骨折以降、雅子は暫く左手を吊るしていたため、通院時に電車に乗る際や、乗車中で、周りの方からは、細かく気を遣ってもらって、むやみに押されたりすることもなかったし、直ぐに座席を代わって下さる親切な方にも多く出くわした。一考と雅子は、このような温かい配慮に、思わず胸を熱くするのだった。そして、この世の中は棄てたものではないと実感するのだった。
 ギブスを外したのは5月10日過ぎだったが、左手は少し変形していた上に手首が固縮していて使えず、バランスを保つのには苦労していて、少しでも押されたりすると倒れてしまうような不安定さだった。従って、その後も、人ごみの中に出て行く時には、安全性を確保するため、一考は、いつも、腕を吊る布紐をバッグの中に持っていて、電車に乗ったり、人ごみの中を歩いたりする時には、その布紐を使って腕吊りをした格好で連れ歩くことにした。こうすることで、人様から注意を喚起できて、押されたりすることから守ることが出来た。
 この頃になって、障害者であるということをはっきりと意識するようになった。以前に妹の美希子から、障害者手帳を申請してはというアドバイスをもらっていたが、骨折するまでは、まだ一人で歩いたり、かなりのことを何とかこなしていたこともあって、その辺りのことを真剣に考えるに至っていなかった。
 しかし、具体的に、一人で歩けなくなって来ている病状から、本格的に社会保障について検討することが必要になった。その最初のアプローチが、5月の吉田病院での定期診断時に、春日先生に身障者手帳申請についての見解を伺ったことだった。幸い、先生からも、診断書作成に同意を得た。また、ほぼ時を同じにして、デストニアの治療を受けている津島医師からは、難病の認定を受けることをも勧められたことで、直ちに必要な手続きを開始することにした。(以下、明日に続く)

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168 世論

 昨日の国会劇場は、最近の話題の出し物である「強行採決」は取り止めた。世論を気遣って、採決を先送りしたようである。
 ところで、世論はどのようにして作られるのであろうか。つまり、それは、国民一人一人の考え方が、どのように構築されるかであるが、何と言ってもメディアが与える影響が極めて大きいことは申すまでもない。中でも、テレビ、新聞の持つ影響力は強力で、国民の考え方を左右する力がある。
 そういう意味では、ニュース、ワイドショーなどのキャスターやコメンテーター、評論家の意見、主張が、世論を導く大きな決め手に直結していることは間違いないだろう。それだけに、彼らは、きちんとした裏づけに基づいた正論を堂々と主張してもらいたい。
 各局に、多くのキャスター、コメンテーター、評論家、雲霞の如くいるが、視聴者である国民にも、それぞれ好き嫌いはある。筆者の好みは、最近では、岸井成格宮崎哲弥三宅久之桜井よしこ、それに、辛抱治郎などで、弁護士の橋下徹の考え方にも共鳴することが多い。勝谷誠彦も面白いが、少し偏っていて少々粗いように思う。これらの多くのメンバーは、関西ローカルの人気番組の「たかじんのそこまで言って委員会」のレギュラー達だ。この番組、最近は、東京地区を除いた全国で放映されているようで、高い視聴率を誇っている。筆者も、この番組の大ファンである。

連載(133) 難病との闘い 第五章 衝撃の症状悪化(21)

 いくつかの大事な機能が次々と失われてゆく中で、一考は、新たに、雅子の読書機能が失われていることに気づいた。つまり、新聞や雑誌が読めなくなっていたのである。左手が自由に使えなくなったため、ページを繰ることが出来なくなったためである。
 雅子の趣味には、読書は入っていない。それほど好きではないというのが本当のところのようだ。それでも、ベストセラーなどは時々買って読んでいた。新聞も社会面やテレビ番組面などはしっかり見ている。最近では、自分の将来のことを心配して、例のパーキンソン病関連の専門書、三冊には、しっかりと目を通したことは既に述べた通りである。
 さて、新聞、書籍が読めなくなったのが、何時頃からかというと曖昧になる。一考が帰郷して、新聞を日経に変えた時には、例の渡辺淳一の連載小説「愛の流刑地」が連載中で、それには目を通していたことは確かだった。この小説が終わったのが、2006年1月31日である。2月1日から新しい小説に代わって、内容が難しくなったこともあったが、雅子はその新連載の小説は読まなくなっていた。
 また、足を捻挫するまでは、一緒にスーパーに買い物に行った際に、照れ臭そうに「週刊テレビガイド」をそっと買い物籠に忍ばせていたことを思い出したが、最近では、買い物時でもそんな姿も見られない。
 つまり、2006年2月以降のある時からは、うまく、ページがめくれなくなって、活字を読む機会が大幅に減って来ていたと言える。そんな訳で、一考の出版した「執念」も雅子は、全く目を通してくれていないのが、筆者には残念だ。
 こうして、今まで難なく出来ていたことが、一つ一つ出来なくなってゆく変化を追ってみると、症状の変化を具体的な形で捉えることが出来る。つまり、衣服の着脱、裁縫のような両手を使う作業、料理での皮むきや、調味料の栓や蓋を開けたりする細かい作業などが出来なくなったことから始まり、車の運転を取り止めたのが、一考の帰郷直後で、2005年1月だった。それが、2006年4月の骨折後、間もなくに、右手にも麻痺が現れ、ベッドから起き上がれなくなったり、お箸が持てなくなったり、階段の上り下りは無理となり、ひっくり返ろうものなら、起き上がれないといった具合に、この2ヶ月間で急激な症状悪化が進んでいる。そんな中で、新たに読書が出来難くなっていたことに気づいたのである。
 このように、一つずつ大事な機能が消失してゆくことに、雅子は、凄い焦燥と寂しさ、悲しさ、そして無念さを覚えているに違いない。恰も、着飾っていたきれいな衣装を一枚一枚剥がされて行くような寂しさ、空しさを身に染みて感じているのではないかと一考は忖度していた。(以下、明日に続く)

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167 泥仕合

 今朝の午前1時半まで掛かって、社保庁に関連する二つの法律、社保庁改革法案年金特例法案が衆議院を通過した。ご苦労さんと云うよりは、この無駄なエネルギーの使い方は、何とかならないものかと思う。いつも思うことだが、これほど残念で無駄な泥仕合はない。国会議員の知性もプライドも全く感じられない、
 それに対して、昨日のジャイアンツの矢野選手の代打逆転満塁ホームランは、アンチ巨人の筆者をぎゃふんと言わせる見事なものだった。しかも、その矢野選手は、代打の代打だったという。国会議員にも代打制度が必要ではないか。
 一方、4月から始まっている将棋名人戦も、森内俊之名人と郷田真隆九段の間で熱戦が展開されている。一昨日と昨日に渡って、その天王山である第5局が行なわれ、森内名人が3勝目を挙げて、遂に第十八世永世名人にあと一勝と迫った。2連勝後の3連敗を喫した郷田九段には後がない。ずっとインターネットに釘付けで、介護も手抜きしていた郷田ファンの筆者の落ち込みは小さくない。郷田九段には、何とか、残り2局に連勝して、逆転で名人位を獲得してほしい。羽生3冠のファンでもある筆者だけに、そうなることで、羽生善治三冠にも、今一度十八世永世名人のチャンスが生まれて来る。これは泥仕合ではなく、名勝負を期待するファンの切なる願いなのだ。

連載(132) 難病との闘い 第五章 衝撃の病状悪化(21)

 お箸がしっかりと握れなくなったのは、入浴時に脚が上がらなくなって三週間近くが経過した6月19日のことだった。それまでも、徐々にではあったが、握力の低下傾向が見られていたが、何とか、自分でお箸を使って食事は出来ていた。しかし、ここに来て、遂に自分で食事が出来なくなったのである。従って、それまでは、気分転換も兼ねて、たまに外食することも可能であったが、ここまで症状が悪化してくると、残念ながら、それも諦めざるを得なくなった。
 取り敢えず、一考が行なったアクションは、ご飯を細い海苔巻きにして、それを適度な長さにカットして、お箸ではなく、手で握って食べることを勧めた。その場合も、おかずは、一考が食べさせるので、一緒に食事を取ることが難しく、取り敢えず、雅子に食べさせてから、自分があとで食べるというツーステップ方式に変わった。
 右手がいうことを利かなくなることで、次に起きた二次障害の一つは、一人でベッドで起きるのがままならなくなったのである。止むを得ず、6月の後半からは、ベッドでの寝起きも、一考のサポートは欠かせなくなったのである。
 それから、数日後、一考が二階の書斎で仕事をしていると、自分を呼んでいる姉の久子の声がした。何事かと思って階下に急ぐと、、一階の玄関脇にある寝室に近いところで、なんと、雅子が上向きで横転していて起き上がれない状態だった。両手が利かなくてバランスを失っての横転のようだった。たまたま、訪ねてきた久子が、タイミングよく見つけて一考を呼んだのである。一旦、横転すると、甲羅を下にしてひっくりかえった亀のようで、一人では起き上がれない。直ぐに抱き起こしてやったが、気の毒さと哀れさで胸が痛かった。
 この時、一考は、二人の間での緊急連絡の取り方を検討することが急務だと気が付き、直ちにその対応の検討を開始した。
 しかし、右手も不自由になっていて、リモコンでも携帯電話のような小さなボタンはうまくプッシュできなくなっていたから、なかなか適当なものが見つからなかった。市販されているブザーや連絡用のホットラインなど、いろいろ試したが、どれもこれも今一つだった。仕方なく、笛を買ってきたが、これもうまく吹けない。防犯ベルの転用も考えたが、音が大き過ぎて喧しい上に、直ぐに止められず、これでは近所迷惑になりかねない。
 試行錯誤の上、最終的には、プッシュするボタンの大きい無線連絡機器を購入して、今のところは、なんとかそれで間に合わせている。(以下、明日へ続く)

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