プロフィール

相坂一考

Author:相坂一考
滋賀県大津市出身
07年1月に推理小説「執念」を文芸社から出版
14年7月に、難病との戦いを扱った「月の砂漠」を文芸社から出版

このブログは3部構成です。
 1.タイトルへの一言。
 2.独り言コラムで、キーワードから世の動きを捉えようと試みる。
 3.プライベートコーナー
   (2015-06-03に修正) 

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258 スキャンダルで逆風?

 このところ、相次ぐ週刊誌の報道に国民は「本当かい?」と眉を潜める状態が続いている。先の参院選で話題を取って、見事当選した二人の過去が暴かれて、大きなイメージダウンになっている。一人が、あのさくらパパの横峯良郎氏、今一人が、あの虎退治で勝利した姫井ゆみ子氏だ。共に、不倫絡みで、正直言って、覗き見趣味の欲望を満たしてくれるにはもってこいのスキャンダルだ。伝えられている情報が事実なら、議員の資格はないに等しい。片山寅之助氏や大石尚子氏の二人には繰り上げ当選のチャンスが芽生えたのではないか。
 コラムニストの勝谷誠彦氏からの受け売りだが、この大石さんは、元衆議院議員で、あの日露戦争の日本海海戦で勝利を導いた秋山真之氏のお孫さんだという。この祖父に心酔する大石元議員は、海上自衛隊が初の海外任務としてペルシャ湾に掃海艇を派遣した時に、わざわざ現地まで激励に出かけているという骨のある人物だそうだ。
 まさに好事魔多しというべきだ。さあ、民主党はどう出るか。神風に乗って大勝した直後だが、逆風には要注意である。国民は民主党の次の一手に注目している。

連載(223) 難病との闘い
      第九章 介護生活の実態1 平成19年春から夏 (2)

 ここからが、根気と体力を要する寝室からの移動である。前年末までは、体重測定のために、先ずは洗面所に立ち寄っていたのだが、今年に入って、症状の悪化に伴い、その体重計の上でうまく立てなくなったため、健康の目安にしていた体重測定を断念し、直接ダイニングルームへ移動する。
 「よいしょ」の掛け声でベッドから抱き起こすと、雅子も小さな声で「よいしょ」と声を出すのがユーモラスだ。そのまま何とかバランスを取らせて立たせる。一考の右手で、雅子の右手をしっかりと握ってやると、不思議とバランスを保てるのだ。そこで、ゆっくりと手を引いて、身体を支えながらそろそろとダイニングルームへ移動を図る。僅か、5~6メートルの距離だが、これが結構時間が掛かるのだ。当初は「トントントン、トントントン、トントントン トン」と掛け声で、雅子の脚もそれに合わせて動いていたが、最近では、そのペースについて来れず、「シュッシュ、シュッシュ」と蒸気機関車のようにゆっくりした掛け声で、何とか脚が動くが、その一歩は数十センチで、ダイニングに辿りつくまで、根気がいる作業である。
 ダイニングテーブルの椅子に座らせて、前掛けを掛け、用意した朝食を食べさせる。先ずは、冷やしたお茶をグラス一杯、ストローで飲む。これが乾いていた身体への水分の補給になり、とても美味そうだ。それが終わると、一口大に切ったバナナを一つずつフォークで口に入れてやる。急いでいると、ついその間隔が早くなるので、雅子は不満を表情で表す。ゆっくりとやってやらねばならない。次が、シュークリームだ。これも、一口大の小型のシュークリームを用意してあるので、一つずつ口に入れてやる。この間、時々、鼻を拭いてやったり、口や顎を拭ってやったりする。それを、雅子が要求する場合もあるし、一考が見計らって拭ってやることもある。
 それが済むとヨーグルトだ。これは、予め少し砂糖を入れてあるものを、少しずつスプーンで食べさせる。焦らずに、ゆっくりとに心掛ける。それが終わると、コーヒーである。これは、ストローを口にくわえさせて、その端をテーブルの手前に置いたカップの中で入れてやれば、何とか一人で吸うことが出来る。熱いので、やけどしないように注意しながら飲む。
 これで、雅子の朝食は一段落するので、今度は、一考が、新聞を見ながら、シュークリームを食べながらコーヒーを飲む。新聞は、私の履歴書と連載小説を先ず読んで、時間の許す範囲で他の記事にもさっと目を通す。この段階で、つけてあるテレビの情報と新聞の記事などから、この日のブログのテーマを思案する。(以下、明日に続く)

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タグ : 横峯良郎 姫井ゆみ子 片山虎之助 大石尚子 秋山真之 勝谷誠彦

257 朝青龍帰国

 解離性障害と診断された朝青龍が療養のためモンゴルに帰国した。その機内での様子をも含めて一部始終が事細かに報道された。5時間のフライト中、何も口にせず、トイレにも行かず、ずっと眠っていた。これは、故意か否かは別として、やはり尋常ではない。それにしても、多くの報道陣が付き纏う報道は、加熱し過ぎで、これも異常だと言いたい。
 お陰で、今まであまり知らなかったモンゴルのことを少し知る機会になったのは皮肉である。今までは、首都のウランバートルを知っていた程度だったが、時差が1時間、空港がチンギス・ハーン、フライト時間が5時間などを新たに知ることになった。また、療養地とされている温泉地ホジルトまでが400Kmあるそうだが、そこまで車で10時間かかるという実態から、モンゴル国内の交通事情は、日本のような優れた状況にはないという情報も新たな知見だ。
 いずれにしても、身体だけではなく、人間を鍛え直しての復活を期待しない訳には行かない。

連載(222) 難病との闘い
      第九章 介護生活の実態1 平成19年春から夏 (1)

 パーキンソン病は、進行性の病気である。これでもか、これでもかといった具合に、症状の悪化が果てしなく進行する。この章では、2007年の春から夏にかけての雅子の症状とその介護の実態を、詳しく具体的に紹介を試みる。書き難い内容もあるが、思い切ってその描写に挑戦する。

(1)3月19日 月曜日 曇り
 5時半過ぎ、一考は目を覚ますと、まず手洗いに行く。そして、その足で洗面所にある体重計で、いつも通り体重測定をするのが一考の起床時の行動の定番だ。戻って来ると、雅子が既に目を覚ましていて「おはよう」と可愛い声で挨拶する。首を殆ど回せないので、目だけでの挨拶だ。その声を聞いて一考はほっとし、眠いのを我慢して、思い切って着替えに入る。着替えの下着、Tシャツなどの日常衣は全部、この小さな寝室に持ち込んである。リフォーム前は、この部屋は客室だったが、一階に他に適当な部屋がなかったので、思い切って二人の寝室にしたのだった。
 数分で自分の身支度を終わると、雅子をベッドから起こしてやる。寝返りを打てないので、長く同じ姿勢でいることが耐え難く、足も痛いようで、早く起こして欲しいようだ。雅子の話では、この部屋に移ってから、寝入りはすんなりと入るのだが、一旦、目を覚ますとなかなか寝られないので、ずっと我慢して朝が来るのを待っていることが多いという。そのため、正面の目の届く位置に壁時計をセットした。それが時を刻むのを堪えて待ち、一考が目を覚ますとほっとするという。
 起こし方は、電動でオートマティックにベッドの背中の面をゆっくりと起こしてゆくやり方と、マニュアル(手動)で、脚を支えながら、力づくで一気に起こすやり方がある。この場合は、雅子に、瞬間的な痛みが走るという。しかし、急いでいる場合は、雅子にその痛みを我慢してもらって、後者の方法で起こす。もちろん、一考のその日の体調で違ってくることもある。後者の場合は、結構、力を要することになるから、一考の腰が調子よくない場合は、前者で起こさざるを得ない。
 最初にやることは、雅子をベッドに腰を掛けさせた状態で、ドクタートロンによる電子照射を首などの部分に行なう。肩叩きの棒状のものを右手に持たせて、その先端を照射したい部分に当ててやり、スイッチをオンにするだけでいいのだ。しかし、この照射での効果の有無は今でもよく分からないが、惰性で継続しているとも言える。
 この照射をしている間に、一考は、簡単な朝食の準備を行なう。また、お米をかして炊飯器のスイッチをオンにする、洗濯機に洗剤等を入れて、これまたスイッチをオンにする。加えて、新聞の取り込みなどの雑用を順次行なう。ばたばたと結構忙しい。朝食は、コーヒー、シュークリーム、ばなな、ヨーグルトなどの簡単なものだ、
 準備を終えると、寝室に戻って、ドクタートロンの作業棒を受け取って元に戻し、寝巻きを脱がして、雅子の着替えをする。その日の衣装を確認して、ブラジャーを着け、下着、セーターを着せて、靴下を履かせ、最後にズボンをはかせる。最近はゴムのバンドが入ったズボンに買い換えている。履かせ易いからだ。それらを終えると、最後に、ヘアーに櫛を通すと、取り敢えず、着替え作業はめでたく完了する。(以下、明日に続く)

タグ : 朝青龍 解離性障害 ウランバートル チンギス・ハーン ホジルト パーキンソン病

256 まずまずの内閣支持率

 新聞各紙の内閣支持率についての世論調査の結果が報じられている。それによると、読売が44%、日経は41%、共同通信が40%、朝日、毎日が33%と、新聞によってかなりの幅がある。しかし、いずれも、改造前に比べれば上回っていることで、安倍総理らも一息ついか格好だ。
 正直言って、この段階で、「支持」か「不支持」かを問われると、今一つピリッとこないことから戸惑うのが普通だが、まあ、改めてのスタートということで、「支持」と答えた方が多いのではと思われる。その際に、舛添厚労相増田総務大臣の二人の入閣が、プラス方向に後押ししたものと思う。いずれにしても、ご祝儀での支持率で、今後の働き具合、実績で大きく変わってくるだろう。
 改造が始まった頃からの株価の動きをみると、27日の午前中は、その朝の米国ダウの伸びの影響で、日経平均は大きく伸びていたが、その後、閣僚メンバーが次々と明らかになるに連れて下がり始め、その日の終値は52円対高で伸び悩んだ。昨日はマイナススタートで、その後少し戻したが、結局マイナス14円弱で終わっている。改造のマイナスイメージがそれほど大きくなかったと見ていいのではと思う。さて、今朝は、米国ダウが200ドル以上も下げているので、新内閣の評価とは関係なく、今日の東証も大きく下げることになるだろう。いずれにしても、株価も、新内閣も先行き不安は消えていない。

連載(221) 難病との闘い
      第八章 二人の生い立ちから病気発症まで(30)

 一年が過ぎた頃に、雅子から左手の異常の訴えを受けた。その後、それがパーキンソン病だとの診断されたが「今のところ、大きな支障はない」との妻の言葉を鵜呑みにし、大したことはなかろうと高をくくって、創作活動に没頭した。
 その三年間で予てから温めていた課題に取り組み、数本の小説を纏めて幾つかの小説募集に投稿したが、現実はそんなに甘くなく、いずれも予選落ちという惨めな結果で、落胆は小さくなかった。物書きとしての才能がないことを自らに言い聞かせる辛い時期が続いた。
 そんな中で、自らを奮い立たせて、最後の挑戦を試みたのが、後に出版を決意することになった「執念」である。これこそが自分の人生の投影であるとの思いが強かった。何しろ、およそ40年近くに及ぶサラリーマン生活の最後となった仕事が、あまりにも劇的なものであったから、それまでになく意欲は健在だった。 企業のグローバル化に伴って、国際間の戦いは、激しく、巧妙な戦略の渦のなかでの興味深い展開だった。何よりも、感銘を受けたのが、三十年近い時間を掛けて、初期の目的を果たした米国親会社の粘り強い「執念」の戦いだった。幸い、会社の実質の生みの親だった牧原大先輩のご協力もあって、一つの形に纏め上げられたことで、自分の中では、今までになかった充足感を持つことが出来た。
 そんな時だった。たまたま帰郷した際に目の当たりにしたのが、あのS字カーブでの雅子のぎこちないハンドル操作で、妻の左手の障害の思わぬ深刻さに気づいたのである。もう悔いる何物もなかった。サラリーマン生活を含む自らの全ての戦いでの敗北に納得し、直ちに実家に戻ることを決意した。相坂の心の中には、雅子への「申し訳ない」との思いが、ひたひたと募って来るのだった。
 思えば、夢を求めての苦しかったが、遣り甲斐のある長い戦いだった。その戦場を去るにあたり、その最後の基地となった東京のマンションの自室をロックした際の、あの乾いた「カチッ」と響いた爽快な音と「ピリッ」とした心地よい感触が、今も、一考の指先と耳の奥に、生々しく、しっかりと残っている。
(本章は今日で終り、明日からは、第九章 実況、介護生活の実態1 2007年春から夏 をお届けします)

タグ : 安倍総理 改造内閣 舛添厚労相 増田総務大臣 執念 パーキンソン病

255 お手並み拝見

 安倍総理によって、玉手箱が開けられた。筆者にはその中身について論評する資格はないが、印象としては、パンチ、新鮮味が今一つのような感じがする。新聞各紙の見出しには「重厚」「挙党」などの言葉が使われていることから、それなりの期待もあるようだ。
 個人的な好みからすれば、町村外相高村防衛相に好感を持つ一方で、好きなタイプではないが舛添厚労相には期待はある。難問山積の分野だけに同氏の手腕に注目したい。また、元岩手県知事の増田総務大臣が民間から登用されたが、よく知らない人ではあるが、経験を生かして何かやってくれるのではとの期待はある。
 その一方で、党の政調会長の石原伸晃氏には、あまりしっくりしたものを感じていない。かつては、同氏には若手の代表として大いに期待したのが、あの道路公団の問題で当時の藤井総裁とのやり取りは、同氏の若さが露呈され、筆者には能力不足を感じさせたからである。つい最近の領収書問題でも、そのリーダーシップには疑問がある。少し登用が過ぎるのではとさえ思っている。
 いずれにしても、改造内閣がスタートした。しっかりした実績を出して欲しい。暫くはお手並み拝見ということで、国民も注視することになろう。

連載(220) 難病との闘い
      第八章 二人の生い立ちから病気発症まで(29)

 そんなかくかくしかじかの次第で、結婚直後に、自分の胸の中で密かに妻に誓った「せめて経営に参画するポジション就任」という約束を果たせないまま、ゲームを終えることになるのが残念だった。監査役を含めた役員経験者は、社友と称し、退職後も特別の扱いを受ける。自分は、会社を愛したという点では、誰にも負けない自負をもっているが、残念ながら、その社友にもなれなかった。人は、努力すれば報いられるというが、努力しても報いられないことの方が多いのではないかと一考は思うのである。(自分の能力不足を棚に上げての勝手な言い分で、この辺りに基本的なものが欠落しているという指摘があるかもしれない。それを承知での告白なのだ)
 そんなことで、一考は、退職の日を目前にしても、充足感の伴わない、忸怩たる気持ちで、どうしても、このまま故郷にすんなりと帰る気持ちにはなれなかった。故郷に錦を飾るという言葉が、妙に相坂の気持ちを掻き立てた。このままでは引き下がれない。そんな気持ちが強かった。そして、自らに言い聞かせて、三年間を目処に、人生の延長戦を戦うことにしたのだった。
 夫婦の別居生活は、言うまでもなく、不便で、不経済で、不自然な生活である。そんな生活を既に十七年間続けて来ていながら、退職後もそれを更に続けようと言うのである。この一考の選択に、その真意を知らない会社の仲間達からは、相坂は何を考えているのかと変人扱いされるのだった。
 そんな第三者の批判は別として、相坂は、それまで大変な苦労を掛け続けて来た雅子のことを思うと胸が痛んだ。長男の嫁として、夫の両親の面倒を看ながら、二人の息子を育て上げたのだ。並大抵の苦労ではなことは充分承知していた。それなのに、退職後も東京に居残るという。雅子に不満がなかったと言えば嘘になるだろうが、妻は大げさな反対をするでもなく、自分の申し出を許してくれた。そんな妻の逞しく優しい応接に、心から尊敬と感謝の気持ちを覚えたものだった。
 かくして、相坂は、この延長した三年間に、かつての夢だった創作活動に全てを賭けたのだった。これには、会社時代に暇を見つけて仕上げた作品が、幸運にも、ある出版社の新人賞の第一次予選を通過した。その実績で、多少の才能があるのではとの本人の錯覚を生み出し、相坂をそのやる気させていたのである。しかも、ご丁寧にも、若しかしたら、大きくブレークするチャンスが訪れ、会社時代に果たせなかった妻への密かな約束以上のものが得られるかもしれないとの独りよがりの夢に繋げていたのだから、それは滑稽以外の何ものでもなかった。(以下、明日に続く)

タグ : 町村外相 高村防衛相 舛添厚労相 石原伸晃 増田総務大臣

254 スランプからの脱出

 絶不調だった阪神の桧山選手が、あの代打満塁ホームラン以来、スランプを脱出したようだ。そのホームランを含めて3連続ヒットで打点を挙げている。昨日は、女子ゴルフの不動選手が今期2勝目を上げ、通算42勝で歴代単独5位になった。最後の、17番、18番ではあわや逆転負けを思わせたが、追いすがる上田桃子選手も、逆転パットが決まらず、逆に、不動が難しいバーディーパットを決めて見事な優勝を果たした。これで長いトンネルを抜けたのではと思う。
 一方、海の向こうでは、初勝利が間近かと見られている宮里藍選手が、ここ2週間連続予選落ちの絶不調に陥っている。実力があるだけに、何かの切っ掛けを掴めば脱出は難しくないだろう。人間だから、好不調の波があるのが常なのだ。
 それよりも、気になるのは、同じく米国で頑張っている東尾理子選手だ。今年は一度も予選を通っていないし、このところ、ほとんど最下位に近い成績で、今週は、二日目を棄権している。彼女の場合はスランプという言葉が妥当かどうか、一考を要する。失礼かもしれないが、アメリカでの戦いに向いていないのかもしれない。
 このところ長いスランプ状態の安倍総理だが、今日、その浮上の切っ掛けをつかめるかがポイントだが、若しかしたら、安倍総理も、スランプというよりも、東尾選手と同様なケースかもしれない。

連載(219) 難病との闘い
      第八章 二人の生い立ちから病気発症まで(28)

 予期通り、プロジェクトは大いに難航した。しかし、チームメンバー、延いては従業員全員の粘り強い協力で、多くの課題、障害を克服し、多少は強引ではあったが、その導入を果たし、現在は、このシステムで業務が運営されている。懸念していた米国本社からの介入は、導入直後から、欧米流の経営戦略を押し付けてきて、合理化を大儀に強引なリストラが持ち出され、多くの仲間が退社を余儀なくされた。共に戦って来た仲間を失くすことには寂しさ以外の何ものもない。
ともかく、近い将来、そのシステムを使っての逆の効果が発揮できるようになって欲しいと、一考は強く期待している。
 一考には、この仕事が長い会社生活での最後の仕事となった。表舞台から裏仕事まで、いろんな仕事に携わったが、正直言って、このプロジェクトが最も苦しんだ仕事だった。導入後も軌道に乗るまでの過程で、多くの従業員に大変な負担をかけたこともあって、心の中では大きな負担だった。それほど大変な仕事であった。
 しかし、その仕事への評価は満足すべきものではなかった。表向きには「やるべきことをやったまで」と云ったそっけない評価だったからである。日本の親会社への気遣いから米国親会社の思うままになるようなシステムの導入を評価することが出来ない社長の立場は理解できる一方で、そういう意味で、充足感が今一つだったと言える。。
 しかし、長いサラリーマン生活を振り返ると、頑張ったにも関わらず、それなりの評価を得られず、吹っ切れなかった仕事は、これだけではない。先にも触れたが、収益性の改善を目指して頑張った値上げが公正取引委員会からの査察を受けたこともその一つだが、他にも、あの関西を驚天動地に陥れた神戸大震災時に、日本経済は大変なピンチに立たされた。生産をするにも、原材料が入って来ないというパニックに陥った時の仕事もそうだった。その際に、会社の主要組織である生産、購買、物流、営業、企画などの主要部署を横断的に結びつけ対策チームを組織して頑張ったのだが、立場上、企画部長だった相坂がそのリーダーを承った。とにかく、顧客に迷惑を掛けないように、出荷を滞らせないようにベストを尽くす活動が半年間に渡って続いた。当初は、毎日、朝夕の二回の連絡会を開き、緊密な連携で何とかピンチを乗りきり、軌道に戻せることが出来た。この仕事は、チームプレーの最高傑作だったと自負したものを覚えていた。
 しかし、である。事態が一段落して、その活動状況を纏めて営業本部会で報告し、それをきちんとした報告書に纏めて提出したのだが、それに対し、評価を頂けるのではなく、上司から、余計なことをしてくれたと厳しくお叱りを受けたのである。「何故だ」全く理解できなかった。何がおきに召さなかったのか、未だに釈然としていない。しかし、どうやら、その報告を相坂名で纏めたことにあったようだ。それと云うのは、このような日本を揺るがす大変な状況下での企業がとった対応を総括するのだから、少なくとも、役員である上司の名前で纏めた形にすべきとお考えになっていただからと思われる。
 しかし、そんな評価も頂けず、お叱りを受けた報告書だったが、後になって、親会社から「神戸地震で会社がとった対応を報告せよ」との要求が出て来た際には、相坂の纏めたそのレポートが使われていたのだから、何をかいわんやである。(以下、明日に続く)

タグ : 檜山選手 不動選手 宮里藍 東尾理子 安倍総理

253 玉手箱の中身

 安倍総理がインドなどのアジア歴訪から帰国した。それほど注目すべき手土産は無かったようだが、国民が注視する玉手箱をしっかりと抱えての帰国だった。その玉手箱が、いよいよ明日にもオープンされる。中身に興味はあるが、正直言って、期待は少ない。
 その内閣改造だが、低迷する安倍内閣を浮上させる数少ないキーである。それだけに、その中身が問われる。しかし、どんなに頭をひねったものであっても、新たな批判の対象になるのが落ちではないかと見ている。よほど「これは」と言える人材の登用がないと勝負にはならないだろう。
 最近の野球では、満塁本塁打が飛び出して、逆転、或いは勝負の流れを決めてしまった事例が三つもあった。あの阪神の7-0からの逆転は、代打「檜山」が、甲子園での高校野球決勝では、佐賀北高校の「副島」選手が土壇場の8回裏に、そして、三日前には、阪神ーヤクルト戦でヤクルトの「ユウイチ」選手が見事な満塁本塁打をかっ飛ばし、味方を勝利を導いた。
 この三人だが、檜山選手は、このところ不振にあえいでいて、期待薄だった。佐賀北の副島選手は、予選では本塁打を打った実績もなく、甲子園に来て、3本も打つという甲子園で成長した選手だった。また、ユウイチ選手は、ずっと2軍にいて、この日やっと1軍に昇格したばかりという選手達で、必ずしも、初めから大きな期待があった訳ではなかった。
 そういう意味では、この玉手箱から思いも寄らない逆転の切っ掛けを作る逸材が飛び出してくるのではとの期待を持って見守っていたい。

連載(218) 難病との闘い
      第八章 二人の生い立ちから病気発症まで(27)

 しかし、一考が悩んだのは、そのような導入過程での厄介な課題よりも、そうすることで、それまで営々と築いて確保して来た日本にマッチしたこの会社固有の自主的な経営戦略が執り難くなり、米国本社の意志が優先されることになることだった。
 会社設立時から、この会社と共に歩んで来ていた相坂は、予てから、経営の主導権を握りたいと画策していた米国親会社の狙いを察知していた。しかし、それらの動きは、比較的緩慢で、一見、目立たない動きの中での比較的静かな展開だった。
 例えば、1978年に、その最初の布石である「資本のマジョリティの確保」が突然の増資で敢行された。その4年後の1982年に、親会社からの「全員出向制を取り止め、移籍」が行われた。更に4年後の1986年には、今回のプロジェクトの下地と言うべき、コンピューターが米国本社のホストに直結された。オリンピックではないが、4年毎に大きな布石を打つという、一見のんびしした巧妙な戦略が功を奏したと思われる。その後も、1989年には社名を米国本社名を前面に出す名前に変更、更に、1996年には、日本に存在していた米国親会社100%出資の別会社とのオフィス統合が行なわれた。
 このように、着実に、その目的に向けての布石が打たれる中で、コンピューターソフトの統合という、今回のプロジェクトが、彼らの覇権を目指す最後の仕上げとして打ち出されたのである。それは、まさに、米国本社が、子会社の経営権を握るために、一気に本陣に迫ることへの宣言だった。
 従って、相坂の立場から見れば、このプロジェクの推進は、いわば、覇権を求めて乗り込んで来る米親会社の連中の前に、赤い絨毯を敷いて歓迎するような役割に相当した。それだけに、幾ら会社の命令であるとは云え、心底から承知したという気になれず、どうしたものかと逡巡し、一時は、相当なジレンマに陥った。
 しかし、サラリーマンである以上抵抗にも限度がある。物は考えようだと自分を納得させようと思考転換に努めた。その結果「新しいシステム自体はグローバル化の潮流を捉えた優れたツールであることは確かであり、使い方次第では、その逆活用も可能になるではないか」という考えに行き着いたのだった。つまり、ITで繋げたグローバルネットワークの逆活用すれば、日本発の考え方を世界に発信することが可能になるとの考え方である。相坂は、自分にそう言い聞かせることで、プロジェクトリーダーとしてその指揮を執ることにした。(以下、明日に続く)

タグ : 檜山選手 副島選手 ユウイチ

252 1000敗の偉業!

 将棋の加藤一二三九段(67)は8月22日の対局で負けて、プロの公式戦で1000敗目を喫した。これは将棋界初の記録である。なお、加藤九段の対局数は歴代1位(2262局)、勝数は歴代3位(1261勝)だ。
 この記録ば、然るべき立派な成績を長く保持しなければ達成できない記録で、あまりにも弱すぎては、1000も負けるような対局数に至らず、達成はできない。
 少し分かり難い話なので、具体的に説明してみよう。今の将棋界は、名人戦や竜王戦のようなタイトル戦が7つ、それに一般の棋戦が6つあるが、名人戦の予選に当たる順位戦以外は、殆どがトーナメント方式で、一回負ければ敗退する仕組みになっている。従って、年間での最大の負け数は、順位戦を覗けば、12敗で、これに順位戦の負け数、最大10を加えた22敗が年間の最大負け数になり、1000敗するには、45年以上掛かることになる、なお、順位戦でそんなに負けると、数年で順位戦への出場権がなくなる仕組みなっている。要するに、1000敗するのは、並みの棋士には不可能な実績なので、ここで敢えて「偉業」とタイトルした。
 ご存知の方も多いと思うが、加藤一二三さんは、かつては天才棋士と呼ばれ、14歳の史上最年少でプロ棋士になり、毎年連続して昇段し、これも史上最年少の18歳で八段に登りつめた。一度は中原名人を破って名人奪取の実績を持っている。そんな実力があって53年以上に渡って現役を保っておられる大棋士なのだ。然るべき成績で長くその地位を保つ生き方は、人間の理想の生き方の一つだと筆者は思っている。今後のますますの頑張りを期待している。
 因みに、大山15世永世名人は1433勝781敗だった。また現役棋士では、中原永世十段は1299勝769敗、現役バリバリの羽生王座は、984勝370敗、森内名人は712勝359敗で、いずれも、1000敗には届かないだろう。それほど1000敗の重みがある。(記録はいずれも、8月24日現在)

連載(217) 難病との闘い
      第八章 二人の生い立ちから病気発症まで(26)

 不運なこれらの失点にもめげず、一考は、粘り強く懸命の努力を続けたが、悪いことは重なるもので、会社設立直後からの最重要顧客だった接着剤メーカーに、競合他社の一部参入を許す失態が起きた。言い訳ではないが、そこには、自分達レベルではどうしようもない相手会社系列の大きな政治力が働いていた。だからと言って、それは担当部長としての責任を免れる理由になる訳がなかった。
 加えて、頼みの綱にしていた自分に理解のあった役員が退任したことも大きな痛手となり、自分自身に課した雅子への密かな約束達成に赤信号が点り始めた。非情な厳しい展開にさすがの一考も弱気になっていた。
 そのような幾つかの事件や失態があって、相坂は、今まで営業本部の前線の責任者としての立場から、次第に裏方の仕事に配置転換されて行った。製品管理、物流業務などの仕事を経て、最後に辿り着いたのがIT(情報システム部)だった。
 IT産業は、その当時は花形の産業として脚光を受けいた一方で、一般の企業では、あくまでも、会社の業務をサポートする裏方の仕事であり、多くは、アウトソーシングの対象になっている分野でもある。幸か不幸か、相坂は、ここでも、極めて難解な仕事を引き受けることになるのである。
 この頃になると、米国親会社、グローバリゼーションという流れに乗って、米国本社のやり方を強く押し付けるようになっていた。そして、その総仕上げというべきシステムの大改革プロジェクトを打ち出した。具体的には、日常業務をサポートしているコンピューターソフトをグローバルに共通のソフトに統合し、それによる子会社の徹底した管理を企図するものだった。
 相坂は、この大改革プロジェクトのリーダーを命ぜられたのである。言語、文化、商習慣の違う世界に、それまではローカルで開発して個々に使用していたコンピューターソフトを世界共通のソフトに切り替えるという作業は、その頃では、まだ世界でもほとんど例がなく困難を極めるプロジェクトだった。
 相坂が懸念したのは、自分はコンピューターには全く縁のない業務ばかりを歩いてきていて、その辺りの基礎知識も持ち合わせていなかったこと、更には、今後、予想されるグローバルメンバーとの重要なやり取りで必須となる英会話を不得意としていたことだった。(以下、明日に続く)

タグ : 加藤一二 大山十五世永世名人 中原永世十段 羽生王座 森内名人

251 燃料タンクに穴

 奇跡的に大惨事をまぬがれた中華航空機火災事故の原因が明らかになった。航空機の揚力をコントロールする可動翼(スラット)を動かす装置のボルトが燃料タンクを突き破ったのが原因だという。ハイテク装置で管理されている航空機が、何と「ボルト」というローテク装置の欠陥で起きた事故だった。
 現代の世の中は、殆どが、ハイテクとローテクの組み合わせで構築されている。そういう意味では、我々の身の回りには、そんな落としは山ほどありそうで、不安が渦巻いている毎日といえそうだ。とにかく、燃料タンクにが開いては話にならない。
 話は飛ぶが、立川署の巡査長が飲食店従業員を射殺した痛ましい事件だが、これは、巡査長の異常な片思いが、同氏の「心」にどうしようもない「」を開けてしまったと言えるのではないか。また、横綱朝青龍の最近の症状だが、これもしかりで、同氏の心にぽっかりとが開いてしまっているのではないかと思われる。
 来週早々、安倍総理が内閣改造を行なうが、致命的な「」のない人選が必須条件だが、果たして、そんな人材がいるのだろか、心配だ。
 人間も、機械も、組織も「」が開いては、脆くて弱くなり、安全は保てない。

連載(216) 難病との闘い
      第八章 二人の生い立ちから病気発症まで(25)

 一考にとって状況を更に悪くしたのは、それまで目立たなかった米国親会社の経営への積極的な姿勢転換だった。会社が順調に成長して来たことを捉えて、資本のマジョリティを前面に出して、その発言権を増して来ていた。
 そうなると、当然ながら、英会話の力が日常活動の中で重視される。一考が不覚だったのは、その面での力不足だった。そのことが露呈されることで、一考は、ますます不利な状況に追い込まれて行った。米国側の管理者達は、極端な言い方をすれば、英語での意思疎通が出来るだけで、仕事が出来るとの誤った評価をするケースもあり、それまでの順調であった自分への評価が、加速的に難しいものになって行った。そんな時に、相次ぐ二つの不幸な事件に巻き込まれた。まさに、泣き面に蜂だった。神の与える厳しい試練に、粘り強い相坂も、遂に手の打ちようもない苦境に追い込まれたのである。
 その一つは、直属部下の突然の自殺という痛ましい事件だった。自分が大阪の責任者から、東京に戻って一年足らずに起きたもので、その原因の如何に関わらず、その時点での直属上司は、その責任は免れることは出来ない。この事件は、今でも、一考の心の奥に、とても辛かった思いでとして残っている。
 今一つは、その一年後のことだったが、恒常的な赤字体質にあった担当製品の収益性改善を期して止むを得ず行った製品値上げが、公正取引委員会からカルテルの疑いがあるとして査察を受けたのである。その頃からも、日本では護送船団方式と云って揶揄され、この種の談合体質は慢性化した状況にあったと言える。しかし、自分達場合は、各社が独自な経営的な判断で行った単なる価格修正に過ぎず、法律に抵触する事実はないと反論して頑張ったが、結果的には、談合を示唆するような多くの書類が摘発されていて、無念にも、その勧告に従わざるを得なかった。会社のために全力を尽くした結果が会社の名誉に傷つけることになったことはまさに悔恨の極みだった。それでも、勧告を受託した以上、せめて、ペナルティである課徴金を可能な限り少なくすべく、お上を相手にその折衝に奮闘し、然るべき成果を得たのだが、そのような努力は、評価の対象になる訳がなく、加えて、この種の事件での米親会社の対応は思ったよりも厳しく、相坂には、大事なタイミングでの取り返しのつかない致命的な痛手となった。
 (以下、明日に続く)

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250 オール電化で大丈夫?

 東電が17年ぶりに電力の供給を抑制した。猛暑による首都圏の電力不足にに対応するもので、素材大手の一部が使用を削減した。柏崎原発停止による供給能力不足が、具体的な形となって影響を及ぼし始めたのである。
 大口顧客との間で結ばれた耳慣れない「需給調整契約」に基づいての供給制限実施という。幸い、一般家庭には波及しない模様だが、ライフラインに関して、いっぱい、いっぱいの状況にあることは不安である。
 筆者宅は、昨年のリフォーム時に、はやりのオール電化に切り替えた。初期投資は別として、確かに電気代は安い。ガスを必要としない面で、安全性も高まる。そういう意味では、オール電化は、将来の方向にあることを疑わないが、このような電力不足の話で出てくると「大丈夫かな」といった不安も少し頭を過ぎる。エネルギーソースが一つより、二つの方が安心だからだ。
 いずれにしても、今や電気は、酸素、水と同様に、人間が生きていく上で欠かせないものだけに、万全の体制を構築して欲しい。

連載(215) 難病との闘い
      第八章 二人の生い立ちから病気発症まで(24)

(4)企業戦士の苦悩
 一考は、雅子が思いの外、すんなりと単身赴任生活を了解してくれたことに感謝していた。長男の嫁と云う立場をわきまえての彼女の決死の決断だったことは、一考も充分に理解していた。女の小姑の多い環境の中での雅子のタフな対応は、想像に難くなかったからである。
 幸い、彼女の献身的な努力で、子供達も順調に成長して行った。一考は、心の中で、妻への感謝をしつつ、会社での評価も順調だったことからも、密かに誓った妻への約束は、何とか果たせるのではと楽観的に考えるようになっていた。その頃は、心配した上司が家庭の様子を窺いに実家を訪ねてくれるという温情に浴したこともあって、相坂は行き届いた上司の配慮に感謝するのだった。
 しかし、会社が二十周年を迎える頃から、少しずつ社内の様相が変わり始めた。その目玉は、社長交代だった。この合弁会社の企画、設立の段階から軌道に乗せるまで、先頭に立って旗を振って来た社長が退任し、親会社から新しい社長を迎えたのである。それを機に、社内体制が少しずつ変化し始めた。特に目立った変化は、その頃から、親会社からの出向者が増え、相坂らの生え抜き組みの存在が薄くなり始めていた。
 新しい総理が誕生すると新しい内閣が組閣されるように、会社の場合も、トップが変われば、その周辺の人事が動くのは避けられない。就任した新社長は、体制強化を大儀に、親会社からの人材投入を要請する。その際に、何人かの自分の腹心となるべき部下を呼び寄せるのは、自然な成り行きだ。
 会社も現金なものだ。設立当初は、海のものとも山のものとも分からずにスタートした子会社が順調な成長をしている訳だから、親会社も、これはいけると見て、今まで渋っていた出向者を積極的に送り込むようになっていた。相坂らから見れば、それは甘い蜜に虫が寄り集まって来るような感じだった。もちろん、形の上では、会社の規模の拡大で、必要な人材を要求した結果なのだが、面白くなかったのは、管理者クラスの流入が多く、それらのクラスの出向者は、相坂らの初期の場合の出向と違って、事前にそれなりの将来のポジションを約束、保証を含みにした出向の形となっていた。(以下、明日に続く)

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249 大逆転の研究

 昨夜の阪神の大逆転勝利は胸のすくような快感だった。報道では14年ぶりの大逆転だという。
 2回を終わって7-0になった時、諦めてテレビを消した。暫く自分の部屋で仕事をしていたが、念のためと思い、コンピューターで速報を確認すると、7-2となって、無死満塁のチャンスを迎えていた。急いで居間に戻ってテレビを見ると、ベテラン桧山選手がバッターボックスにいた。「駄目だなあ、檜山選手は絶不調だよ」岡田監督の選手起用に不満を持ちながら見ていると、何と、打った球は伸びてセンターオーバーの起死回生の満塁本塁打となった。ここで流れは一気に阪神になり、後は、着実に同点、勝ち越し、ダメ押し、そして、JFKの颯爽の登場で絵に描いたような大逆転勝利となった。
 この大舞台を演出し貢献した選手は多い。最初の功労者が切っ掛けを作った鳥谷で、最大の功労者は代打満塁本塁打の檜山、その他にも、同点打のシーツ、勝ち越し本塁打の矢野、続いてダメ押し打の赤星、押さえのJFKなど多士済々だが、その前に相手の追加点を押さえた江草投手の力投も大きかった。主砲、金本選手の名前が無いのが気になるが、それでもドラマを作れたことの意味は大きい。
 いずれにしても、波乱万丈の最高の筋書きで、プロ野球の醍醐味を満喫した。なお、この試合を時間延長でその感動を最後まで伝えたテレビ大阪も「あっぱれ」で拍手を送りたい。
 ところで、安倍内閣も大量失点を抱えて苦境にある。大逆転を目指すには、先ずは鳥谷選手のように切っ掛けが必要だ。内閣改造がその役割を果たすのか、キーポイントは檜山選手のような起死回生の痛打だが、そんなビッグな何か秘策があるのか、加えて、矢野赤星に相当する国民のためになるプロジェクトが出てくるかが注目される。また、それだけではなく、江草JFKのように、相手をしっかりと押さえなければ話にならない。今までのような身内の内閣からの失点が続くのは論外だ。

連載(214) 難病との闘い
      第八章 二人の生い立ちから病気発症まで(23)

 二人の子供が大学生として家を出て、主人のいる横浜近辺に集まった頃から、二、三ヶ月に一度の割合で、夫の単身赴任宅に一週間程度出向く機会を得られるようになった。義母や義姉の配慮からだったが、或る時の出かけ際に、義姉が「母といったら、貴女が出かけるというと、嬉々として元気になるの」と冗談ぽく言われたことがあった。一瞬、むっと来たが、「それはそうでしょう。互いに義理の仲ですからね」と率直に答えたが、自分の存在で、義母にもそれなりのプレッシャーを与えていたのかと改めて認識するのだった。しかし、それはお互い様で、自分も、義母や毎日顔を見せる久子には、それ以上のプレッシャーを受けていたことも事実だった。もちろん、久子の精力的な介護には大いに助けられているものの、その有無を言わせぬワンマン的な性格から来るプレッシャーは格別で、あくまでも、仲良く遣らねばならないとの思いから、常に、抵抗する事を避けて、気に入られるように応じて来ているその精神的な負担は、自分にしか堪えられないような環境だと思っていた。 
 それでも、早いもので、夫に嫁いで三十五年になる。小姑が多いことで大変気苦労の多い毎日の積み重ねだった。二番目の義姉の久子さん以外にも、時たま、手土産を持って両親を訪ねて来る夫の姉妹達に、両親が手放しで喜んで迎えるのを見ていると。当然な行為とは理解しつつも、僻みなのかもしれないが、いつも側にいる自分の存在があまりに小さく見えて面白くないことも多かった。そんな嫌な思いを幾度も繰り返しながら、それでも、家族全体が大きくもめることなく、何とか「和」を保つ事が出来たことに、長男の嫁としての最小限の責任を果たせたのではと思っている。それにしても、話に聞いていた以上に、小姑の多い長男の嫁の大変さは、想像の域を超えたものであり、実際に経験したのも以外には理解できない大変さだと思うのだった。(以下、明日に続く)

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248 危機一髪の脱出劇

 着陸し駐機場に停止してから起きた珍しい事故だった。大抵の場合、「ドン」と軽いショックで着陸し、滑走路を走ってスピードが減速してくると、「大丈夫だった」と乗客はほっとする。
 しかし、今回の場合は違っていた。駐機場についてからの思いも寄らない事故だった。煙が出ているのを乗客が発見し乗務員に伝えた。一部の報道では、それがなかなか受け入れられず、多くの乗客はやくもきしたとの報告がある。
 こういった非常時には、誰か機転を利かす人間がいて、危機を救うことが多い。今回は、その役割を果たしたのは整備員だったようだ。ともかく、90秒ルールで、乗客、乗員全員が脱出できたのは幸いだった。要注意、中華航空である。
 話は一転するが、安倍総理は東南アジアを外遊中だが、安倍内閣自体は先の参院選挙歴史的大敗し、昨日の中華航空ではないが、まさに「機体から煙が出ている」状態だ。しかし、ご本人は大丈夫だと頑張っている。誰かが素晴らしい機転を利かして、犠牲者の出ないように手を打ってもらいたい。

連載(213) 難病との闘い
      第八章 二人の生い立ちから病気発症まで(22)

 義姉の久子が横浜にあった自宅を売って、ご主人と大津に移って来られたのは、義父が亡くなる数年前だった。都庁勤務だった旦那さんが早めに退職しての転宅だった。両親の面倒を看たいという久子の強い希望が叶ったのだ。それ以降、久子が、ほとんど毎日のように顔を出してくれて、下の世話など自分が手の出し難かった世話をしてくれるようになったので、随分と助けられたのだが、それだけに、彼女に対する気遣いには格別で、神経を擦り減らすほどの大変なものだった。
 特に彼女は、何事も自分が前面に立ってやらないと気が済まない性格だった。もう相坂家から嫁いでいるにも関わらずである。いつか、本人から聞いたことがあるが、自分は、両親の面倒を見るために生まれて来たので、子供も作らなかったと言っていた。また、学校を卒業後に、フルブライト留学生に選ばれたのも、母親への親孝行のためであって、自分が行きたいからというものでもなかったと言っていた。とにかく、異色の物の考え方をもった義姉だった。
 そんな性格から、両親の面倒だけでなく、全ての姉妹達の家庭にも気配りし、何か心配事があると、自らがしゃしゃり出て行って、どんなことにも介入して事に当たるといった世話好きだった。姉妹達もそこまでは構わないでと言いながらも、何かあると久子に相談するようになっていた。いわば、久子は、相坂家の長男の役割を果たしているようで、その辺りが、一考が面白くなかったのはよく理解できた、後になって一考に対し「長男失格」とまで言い放つ義姉の強さには、女を越えた凄まじい親思い、身内思いが、その根底にあってのことだったのだろう。
 雅子にとって少し面白くなかったのは、久子の情報の扱いに関するルーズさだった。自分が得た人のプライバシーを皆に言いふらす癖があって、親戚の者からも放送局と揶揄されていたくらいだ。自分にも「母には言わないでね」と釘を差しながら、話してくれた内容を自分から先に母に話してしまっていて、義母から知らなかったのと言われると、その対応に躊躇するようなことが幾度かあった。
 また、細かいことまで知りたがる性格からか、例えば、自分が何処かに所要で出掛ける場合も、「何処に」「何しに」「何のために」といった具合に、久子が根折葉折り質問を畳み掛けて来るのが苦手だった。一考に言わせると、そんなプライベイトなことには答える必要がないから、適当にごまかして置けと言ってくれるのだが、自分の性格からは、それが出来ず、ついつい言う必要もないことまで口走ってしまうのだった。
 それにしても、そんな妻の相手をしておられる久子の旦那さんの大らかさには、雅子は脱帽だった。(以下、明日に続く)

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247 萩本欽一

 退職後の筆者は歩きに拘って、4年間でおよそ3000Kmを歩破した。東京23区内にあるおよそ680の坂道を捜し求めての歩くが軸だったが、後半は42.195Kmのマラソン距離に16回の挑戦を行なった。圧巻は、5日に分けて、およそ200Kmある琵琶湖一周を歩き切ったことだった。それだけに、日本テレビで行なわれた24時間テレビでの萩本欽一氏の70Kmへの挑戦には興味を持って、その闘いぶりを見ていた。
 筆者の記録では、一日の最長歩行距離は、琵琶湖一周の4日目のJR彦根駅から湖岸道路に出て、南下、野洲川を渡って、JR守山駅までの48,7Kmで、所要時間は12時間だった。帰郷した一年目の6月29日で、その日は、もう真夏に近い暑さだったことを覚えている。守山駅に到着する直前では、昨夜の欽ちゃん以上に疲れ切っていたのを覚えているが、その時の達成感は今でも忘れられない。
 自分の場合は、誰も通っていない道を、ただひたすら黙々と歩き続けたのだが、欽ちゃんの場合は、当時の筆者よりも2歳年上で、人気者だけに多くの沿道の人たちへの配慮が避けられず、それによる疲れが大変だったに違いない。それに、本人も言っていたように、後の30Kmはそれまでの40Kmとは違った大変さだという。
 筆者は、今は、介護の毎日で「歩きを忘れた亀」になっているが、久し振りに。「歩き」の苦しさと快感を思い出させてくれた感動的な番組だった。

連載(212) 難病との闘い
      第八章 二人の生い立ちから病気発症まで(21)

 義父母への食事の気遣いも大変だった。温かいものを食べさせて上げたいとの配慮から、最後の加熱などのステップを、二人の行動のタイミングを見ながら調整する必要があった。また、二人の好みが違う事も多く、その上、結構好き嫌いがあって、毎日、三回の食事のメニューを考えるだけにもうんざりすることもあり、食材の選択にも、二人分だけは特上のものを選ぶなど気苦労が多かった。
 両親の性格は対照的で、例えば、時間の観念では、義父は時間に正確できちんと対応してくれるのに対し、義母はのろまで時間には極めてルーズだった。従って、義母の面倒を見る際に、どうしても待つ忍耐力と時間へのゆとりを持つことは必須だった。最初の頃は、この待つことでいらいらもし、余計な神経を使って疲れることも多かった。しかし、慣れるとは恐ろしいもので、次第に待つ事の苦痛が苦痛でなくなるようになるのだった。
 その義父が数年前に九十七歳で亡くなった。そこで、急に浮上して来た悩みが義母の時間に対するルーズさだった。義父のきちんとした締め付けが無くなった反動で、抑えられていた重石がとれたようで、それを制御しきれなくなっていた。その結果、月に一度の老人会では、もはや遅れの常連になってしまい、趣味の俳句では夢中になって夜なべすることも多くなって、生活ペースに乱れが目立つようになっていた。
 そんな九十歳を越える年になっても、俳句への情熱は健在であり、また人様に嫌な思いをさせてはいけないと身だしなみに気を遣い、衣装、口紅、香水などに入念に気配りする能力はしっかりしていていたが、その一方で、時間的な観念だけが欠如しているというアンバランスさがあった。人間は、年を取るにつれて、何かを犠牲にしてバランスを保っているのではと思うのだった。
 自分の指に異常を感じたのはこの頃で、確か、義父の百か日を過ぎた直後だった。しかし、その頃は、実質的な不自由を伴うものでなかっただけに、特に気にすることもなく医者が下した診断の腱鞘炎程度のものと受け取っていて、それまで通りの生活を続けていた。(以下、明日に続く)

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246 釜山十二華さん

 昨夜、偶々見ていたNTV系列の24時間テレビで、エーラスダンロス症候群という厄介な病気に掛かっておられるピアニスト、釜山十二華さんの演奏を見た。最近、難病に関心が高いこともあって、この種のお気の毒な方には、人一倍関心が高い。
 この病気は まだ、難病指定は受けていないが、人間の皮膚や組織を形成するコラーゲン等、結合組織成分の先天性代謝異常により、皮膚の異常な伸展性・脆弱性、血管脆弱性に伴う易出血性、靱帯や関節の異常な可動性亢進等が見られる疾患だそうです。怖いのは、大動脈瘤が出来てそれが破裂して命に関わる危険があることのほか、脱臼し易く荷物がもてないことなどだ。
 十二華さんは、一見して、そんな大変な病気を抱えているとは見えないが、そんな不安を見せずにピアニストとして頑張っておられることに感動を覚えた。
 番組では、あの世界フィギュアの金メダリストの安藤美姫選手とのコラボレーションが披露され、素晴らしい演技、演奏で大きな感動を与えてくれた。体調が今一つだったという安藤選手だったが、懸命の演技でこれに応え、この企画を成功させたことに拍手を送りたい。
 世の中には、実に多くの難病があることに改めて驚く一方で、妻の難病(パーキンソン病)介護に明け暮れる筆者には、大きな勇気を与えてくれた。

連載(211) 難病との闘い
      第八章 二人の生い立ちから病気発症まで(20)

 長男の場合の登校拒否は、いわゆる一般の虐めとか、勉強が嫌いといった類のものではなかった。それが証拠に、放課後通っていた予備校には、欠席することもなく、自ら進んで通っていた。従って、自分も、息子の言っている「学校の教え方が気に入らない」というのが本当なのかもしれないと思うようになっていた。九月になると、学校から、これ以上休むと進級できなくなるとの連絡を受けた。困って、その旨を夫に連絡し、担任の先生に会って、その実情の確認とその対策について話し合ってもらった。息子もそういう事情を理解し、何とか卒業に必要な最小限の出席日数を確保することができて、ほっとしたものだった。
 そんな大変なことはあったが、長男は昔住んでいた横浜の日吉時代の印象が余程良かったのか、何としてもその近くにあったK大学に入りたいとの強い執念で、一浪こそしたが、その意思を貫き通したのは立派だった。
 次男の方は、その点では悩みは少なく、高校は進学校である夫と同じ高校に進んだ。そこでは、中学から始めていた陸上部で短距離走の選手として活躍し、近畿大会にも出ることもあった。息子の雄姿を追って、幾つかの陸上競技場を梯子したことが懐かしい。スタート直前の緊張感、走っている間の興奮は、今でも印象強く残っている。或る意味では、幸せな時期であったと思う。
 大学入試では、それぞれそれなりの気苦労があったが、二人とも、一浪はしたが、何とかそれぞれ自分の希望する学校に入学した。いずれも関東の大学であったことから、二人とも、夫のいる横浜に移って行った。長男は、先に夫と同居していたが、次男は部屋の関係で一緒には住めず、別に部屋を借りての一人生活となった。
 気がつくと、自分一人が残され、夫の両親の世話だけに徹する生活が始まっていた。この頃になると、二人の両親の健康にも陰りが見え始めていた。それも当然で、義父はもう八十九歳に、義母も八十歳になっていた。決して、寝込むようなことはなかったが、健康には細心の注意を払い、少しでも何か異常があれば、病院に行って診察を受けるといった生活パターンになっていた。
 そうは言っても、年老いた老人を病院に連れて行くのには手が掛かった。なるべく、病院の待合室で待たせる時間を少なくするために、事前に診察券を出しに行っておいて、時間を見計らって連れて行く。従って、病院へ行く日は、少なくとも二往復する多忙な日課となった。(以下、明日に続く)

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245 驚異的な下げ幅

 国内最高気温が74年振りに40.9度の新記録を更新した翌日、東証は終値で驚異的な874円安となった。これは7年4ヶ月振りの大きな下げ幅だという。
 昨日の動きについては、米国市場の動きからある程度の下げは止むを得ないと予測していたが、実際にはそれをはるかに越える想定外の下げ幅となった。一喜一憂しても始まらないが、含み資産が一日で大きく吹っ飛ぶ訳で、個人的にも衝撃は小さくはない。幸い、今朝の米国ダウは、公定歩合が引き下げられたことで、230ドル以上戻しており、今度こそ、下げ止まったと見ていいだろう。
 時間をかけて、少しずつ積み上げてきたものが、一気に倒壊する。先の新潟中越地震のように、住宅などの建築物が崩壊するように、視覚で捉えられないだけに、痛みに実感が伴わない。それが逆に怖いともいえる世界だ。
 そういえば、4年数ヶ月前に、一時、7600円ぐらいまで下がった株価が、18200円まで膨れ上がった来ていた訳で、この辺りで、一度はじけるのも、バランス上必然性があったのかもしれない。

連載(210) 難病との闘い
      第八章 二人の生い立ちから病気発症まで(19)

 こうして、夫の両親の世話をする生活が始まった。最初は、両親の家の二階を借りての生活だったが、暫くして、その一部を取り崩し、母屋に並立して小さな家を新築し、廊下で連結する住まいとなった。いわゆる二世帯住宅のはしりだった。しかし、この時点では、両親も健在だったので、夫が遅く帰って来るとは言え、側にいてくれたことで、それほどの苦労もなく、長男の嫁としての責任を果たす事が出来た。間もなく、夫は、大阪の責任者に昇格した。年の割には早い出世だったようだ。子供達も、新しい学校に慣れ、順調に育ってくれていた。それまで抱いていた雅子の同居への不安は、幸い薄らいでいた。
 この間、近くの自動車学校で車の免許を取得した。二ヶ月ぐらい掛かったが、この時に、時々顔を合わせた学生さんから、ラブレターらしきものを貰った。中身を見ると「是非、一度お願いしたい」という馬鹿げたもので、その頃の学生のいたずら?には驚かされたものだった。しかし、この免許の取得が、それ以降の生活には必需品となり、自分の人生のキーワードなった訳で、意味深い免許取得だった。
 夫の大阪勤務は五年間続いたが、長男の高校受験が真近に迫った頃、再び東京への転勤が決まった。このタイミングでの東京への転勤はサラリーマン人生では、将来への重要な意味を持っていた。それだけに、子供達の教育や夫の両親の世話を考えると、好むと好まざるに関わらず、別居生活を決断せざるを得なかった。かくして、夫は単身赴任生活に入り、自分は、長男の嫁としての本当の意味での大変な生活との戦いを始めていた。結婚して十七年目のことだった。
 別居に入って最初の頃は、夫は、気遣って、一ヶ月に一、ニ度ぐらいは出張時などを捉えて帰宅してくれていたが、それも、次第に減って行った。
 最初に悩んだのは長男の高校入試だった。長男の場合は、小学校五年生でこちらに転校して来ていたが、生来、人見知り的な性格が強く、なかなか皆と馴染めないこともあって、最初の頃は、無理やりに手を引いて学校につれて行くこともあった。そんなことで、思うように勉強が捗らず、準備不足のまま高校入試を迎えることになり、安全を期して、新設の高校を選んだ。最初の一年は何事もなく通学していたが、ニ年目になって、学校の教え方が気に入らないと、登校拒否をするようになった。困ったことになったと思いながら、いろいろと説得を繰り返し、その気になるのを気長に待って、車に乗せての通学を繰り返すことになった。こんな形で車の免許が役立つことに何とも云えないシニカルさを思うのだった。
 心配して先生に相談すると「成績はいいので、それほど心配することはない。単位が足りなくなったら、連絡するので、その時に相談しましょう」ということだった。その先生の言葉で一安心し、気長に息子の様子を見守る日が続いた。(以下、明日に続く)

タグ : 単身赴任 登校拒否

244 40.9度の新記録

 74年ぶりの記録更新だという。昨日、埼玉県熊谷市と岐阜県多治見市での気温が40.9度が観測された。それまでの記録が山形市で1933年に記録された40.8度で、クイズなどでよく出されていたので、多くの人に馴染みがあった記録だった。昨日の新記録で、自分達の記憶も更新しなければならない。
 ところで、報道によると、北極圏の氷の面積が大幅に減ってきているという。地球温暖化がどんどん進んでいる具体的な事例だ。筆者らの命のある間では、影響は限られているだろうが、将来の地球がどんな環境下に置かれるのかは興味と同時に不安がある。
 しかし、人類の英知が、必ずや、この難問の環境問題を克服して行くと信じている。あの世から、しっかりと見守ってゆきたい。
 さて、あの世の話でなく、気になると言えば、株価の動きだ。今朝の米国ダウは、一時300ドル以上に下げていたのが、引け際の1時間ぐらいで一気に回復、17ドル弱安まで戻した。これで、下げ止まったのかどうか、今朝の東証の動きから、目が離せない。

連載(209) 難病との闘い
      第八章 二人の生い立ちから病気発症まで(18)

 二人の子供を連れて大津に戻った雅子には、それまでとは違った新しい生活が待っていた。気持ちとしては充分に吹っ切れていなかったが、自らを律して、義父母の世話をする生活に挑戦し始めた。二人の生活習慣や食事の好みなども把握出来ていなかったことで、不安な手探りでの生活だった。それでも、幸いなことに、夏休みが終りに近づく頃には、義父の前立腺の病気も、義母の足の具合も順調に回復を見せていた。抱いていた不安と云う暗雲が少しずつ薄らぎ始めていた。そして、あと数日で夏休みが終わるという日になって、雅子は、急遽、義父の部屋に呼ばれたのである。
「やはり、夫婦が別れて生活するのはよくない。幸い、自分達は、もう大丈夫だ。余計な心配掛けたが、息子のところに帰りなさい。今なら、子供たちも転校せずに済む」想定外の義父の思いやりのある言葉に、熱い物が込み上げて来るのを覚えた。正直言ってほっとする一方で、張りつめていたものが一気に崩れて行くのが分かった。その夜、夫と相談し、取り敢えずは、この話を一旦白紙に戻すことにしたのである。まさに、「大山鳴動し、鼠一匹」だった。
 そんなことで、二人の息子達は、お別れ会があったにも関わらず、それまで通りの状況に復帰した。その際、学校では先生がうまく事情を話してもらったので、問題はなかったが、長男が通っていたそろばん塾では、そのことで「嘘つき」呼ばわりされて、涙することもあって、子供ながらに傷つき、暫くは、居心地のいい気分ではなかったようだ。
 ほっとした雅子だったが、改めて、長男の嫁の大変さを認識した一連の出来事だった。
 それから数年が過ぎた。そんな相坂の家庭の事情を汲み取った上司の配慮もあって、大阪への転勤が決まった。結婚後十三年目のことだった。しかし、雅子には、このタイミングでの転勤が気掛かりなことだった。それは、長いサラリーマン人生の戦いの中で、その転勤が、夫にプラスだったのどうかである。そのことについて、その後幾度か夫に質してみたが、夫は、何も語ろうとはしなかった。
 いずれにしても、大津の自宅からの通勤が可能となったのを機に、両親との同居を始めた。この段階では、両親も自分達で食事の賄いは行なっていて、必要な時だけ手伝うような生活スタイルだった。(以下、明日に続く) 

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243 下げ止まらず

 安倍総理の支持率ではない。サブプライム問題に端を発した株価下落が続いている。今朝の米国のダウ平均も167ドル以上の下げで13000ドル台を割った。つい1ヶ月前に14000ドルをつけていたから、1000ドルの大幅な下げだ。今朝も、中盤までは一進一退の動きだったが、引け際の2時間での大幅な下げで、先行き不透明が続いている。これで、5日連続の下げで、間もなく始まる東証でも、下げ止まりは難しく、大幅下げが懸念される。
 東証の日経平均も1ヶ月前には18200円台だったのが、昨日は16500円を割っていて、下手すると、今日は16000円近くまでの大幅下落が心配だ。プロには買いのチャンスだそうだが、アマには資金が無くて打つ手なしで、じっと我慢するだけだ。
 ところで、昨日は気温が40.2度を記録したところが数箇所あったという。暑い夏が続いている。そこで、この「暑い夏」を使って、下手な川柳にトライした。「株下落、冷や汗吹っ飛ぶ 暑い夏」「ままならぬ 支持率、株価 暑い夏

連載(208) 難病との闘い
      第八章 二人の生い立ちから病気発症まで(17)

 翌日、一考が会社に出掛けるのを待って、雅子は実家の母親に電話した。前夜は、何故か悲しくて眠れず、込み上げてくる涙でなかなか寝着けなかった。せめて、母親にそんな悲しさを伝えたかった。
「酷い話ね! 本当にご両親がそんなことを言っておられるの?」母親もそう言って同情してくれた。
「義姉の久子さんからのお話だそうですけれど。一考さんも、お手伝いさんを雇うなど手を尽くされたんだけど、それが、うまくゆかなくて」雅子は、かいつまんで、その辺りの事情を話して聞かせた。
「それで、ご両親は、どんな具合なんだい?」母親も、娘の気持ちを察して、心配そうに言葉をつないだ。
「一考さんからの話では。義父さんは前立腺の病気で尿が出難く、義母は庭で転んで足を痛めたと言うらしいの。どの程度、大変なのかは良くは分からないけど。でも、こうして、お母さんに話を聞いてもらったことで、何かが吹っ切れた気がするの」雅子はそう言って一息つき、受話器を握り直した。
「とにかく、自分なりに頑張ってみるわ」雅子は自分に言い聞かせるようにそう言って、電話を切った。梅雨明けの極暑が、朝からその片鱗を発揮しつつあった。
 この話が出た時点では、長男が小学校の二年生に、次男が幼稚園に入った頃で、折角お友達も出来てこれからというタイミングだった。それだけに、二人には可哀そうだと思ったが、一考の全ての姉妹達もそれぞれ嫁いでいて、年老いた二人だけの生活となっていたのを、そのままにしておくのも忍び難かった。いわゆる小姑達からすれば、長男が面倒を見るのが当たり前ということで、東京でのんびりと勝手な生活をしていることは無責任だと言い始めていたのである。特に、サラリーマンの厳しいサバイバルレースを全く知らない久子の言い方には、有無を言わせぬ理不尽なプレッシャーがあった。
 生来従順な雅子は、納得した訳ではなかったが、これが長男の嫁の使命なのだろうと諦めて必要な準備に入った。たまたま夏休みが間近だったことから、二学期から転校するという段取りで手続きを進めた。二人の息子達は、それぞれ、学校と幼稚園でお別れ会を開いて貰った。(以下、明日に続く)

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242 ローカル放送局

 他局が放送しない阪神タイガースの試合を一手に引き受けて中継してくれる「サンテレビ」の存在は、ファンには実に有難い放送局だ。しかも、試合終了までしっかりと放送してくれる。なまじっか、他局が放送すると、途中で切られてしまうので、そんな中継なら放送しないで欲しいと思うことが多い。
 ところで、このところ朝日放送が、高校野球をしっかりと放送するようになった。NHKがやってくれているので、そこまでやる必要があるとは思わない。お陰で、楽しみにしているテレビ朝日からのネットである「サンデープロジェクト」や「スーパーモーニング」などは、この期間は関西では放映されない。それぞれのキャスターである田原総一郎さんや赤江珠緒さんのファンだけに面白くない。これなんかは、ローカル局の横暴とさえ感じている。また、朝日放送のオリジナル人気番組の「ムーブ」もこのため2週間もお休みだ。高校野球はNHKだけで十分だと重ねて言いたい。
 さあ、その高校野球、今朝は滋賀代表の近江高校が今治西高校と対戦している。6年前は滋賀代表として、初めて決勝戦まで進んだ実績があり、今年もかなりいけるのではと期待している。
 なお、今朝のニュースでパイレーツの桑田投手が戦力外通告を受けたと報じている。自分の意志を貫き通して、よく頑張ったと思う。次にどんな選択をするか、興味深い。

連載(207) 難病との闘い
      第八章 二人の生い立ちから病気発症まで(16)

「ええ、別居ですか?」藪から棒のとんでもない夫からの提案に絶句した雅子は、その戸惑いを隠さなかった。いつもの穏やかな笑顔の雅子の顔が大きく歪んでいた。一考のこの申し出が、雅子に与えた衝撃の大きさが、具体的な形となって出ていた。一考は、その想定外の雅子の変化に驚きはしたものの、その提案した背景についての事情説明を試みた。
「両親の具体的な今の状況を確認してみたんだが」一考は、そう言って一旦言葉を切り、雅子の顔を窺ってから再び言葉を続けた。一考の戸惑いが、そんな言い方に現れていた。
「前にも話したが、先日のたまたまの関西出張時に帰宅した際、親父が前立腺の病気で尿が出ないという非常事態に出くわして、掛かり付けの医者の示唆で日赤病院に運び込んで、事無きを得たのだったが、その後の回復が今一つのようなのだ。それに、最近、母親が庭で転んで、足を挫いて、二人が不自由しているというのだ。二人をこのままほおって置くのはよくないというのが久子の心配で、長男の私に善処を依頼してきたんだ。お手伝いさんの起用で解決しないとなれば、今のところ、君に頼むしか他に手がないというのが私の考えなんだ。親の面倒を見ることは、長男とだと言われると、私も辛い。申し訳ないが、何とか頑張ってもらえないか」雅子のつらそうな表情に、一考も苦しげな面持ちで、自分の考えを懸命に訴えた。
「あなたと一緒なら、頑張ること自体は全く差し支えないけれど、別居して、私一人が乗り込んで行って、充分にその責任を果たせるかしら。結婚して、まだ十年そこそこですよ。そんなことを急に言われても、……。」雅子は、それ以上は言葉にならなかった。何だか、悲しいものがこみ上げてくるものを飲み込むようにして、その場を堪えていた。
「君のいうことはよく分かる。こんなに早くこんな事態が来るとは考えていなかった。そうかと言って、ほおって置く訳にはゆかない。長男の嫁には辛いことが多いんだ。週末には、僕も出来るだけ帰るようにするから」一考の話しぶりも、泥縄式でうろたえているのがよく分かる。
「出来るだけ帰るって言ったって、多忙なあなたには無理でしょう」雅子の言い分は尤もだった。その頃、営業に専念するようになった一考の生活は、多忙さを増した様で、帰宅時間も常に深夜が当たり前となっていた。従って、二人の子供の面倒は、全て自分の責任として夫から丸投げされていた。そのことについては、「自分が仕事に没頭する事で、サラリーマンの戦いに勝利すれば、君に幸せを提供できるはずであり、こうした分業も夫の妻思いの一つなんだよ」と諭され、それを良しとして来たのだった。
「とても、自信が持てないわ。近くに義姉妹も何人かおられるでしょう、皆とうまくやっていけるかしら」いろんなことを考えると、雅子の頭の中に、掴みどころのない不安が増してくるのだった。その時点では、全ての5人の姉妹達も皆、それぞれ結婚していて、久子を除いては、皆両親の近くに住んでいた。
「君には大変なことはよく分かる。でも、他に手の打ち様がない」一考の、ひたすらお願いの一手に、雅子もそれ以上返す言葉も無く、黙ったまま、頷くしか仕方なかった。(以下、明日に続く)

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241 小池百合子防衛相の評価

 コラムニストの勝谷誠彦氏のブログは有料だが、内容が面白いので毎日購読している。一昨日の内容は、小池防衛相の一般紙での記事は提灯記事だと決め付け、実態は「ライス国務長官は、会談後、小池さんの頭の悪さに辟易したそうだ」と酷評している。要するに、アメリカの要人たちが会ったのは、彼女が若しかしたら重要なメッセージを持って来ているのではないかと期待してのことだったが、「私は日本のライスを呼ばれているが、日本ではライスはスシですね」といった馬鹿げたジョークを飛ばしたに過ぎず、「ただの本当のバカでしたね。今、ワシントンではそういう話題で持ちきりだろう」と結んでいる。
 筆者は、英語が苦手なので、彼女の英語のレベルには一目置き、そのことだけで、なかなかやるじゃないかとも思ってしまう。勝谷氏が言うように、政党間を渡り歩くいい加減な女なのか、間もなく行なわれる内閣改造を含めた、彼女の今後の動向をじっくりと見守りたい。

連載(206) 難病との闘い
      第八章 二人の生い立ちから病気発症まで(15)

(3)両親の世話
 相坂一考は、入社直後から三年半に渡って基礎研究所の研究員として勤務していたが、4年後には新会社での営業担当に大転進をしていた。まさに、コペルニカス的な転進で、当時でも珍らしい人事として話題になったようだ。それでも、当初は、新会社で応用研究所との兼務だった。それが、営業に専念することになったのは、結婚して三年ほど経過した頃である。もちろん、一考には戸惑いの日々が続いたが、それでも、経験を積み重ねることで、日を追ってそれに慣れていった。研究で鍛えた技術的なバックグラウンドは大いに役立ち、上司からも然るべき評価を受け、順調な実績を残していった。
 ゼロから出発した新会社だっただけに、自分達の努力の積み重ねが素直に数字で現れて来るのが、社員にやりがいと意欲を喚起させることになり、将来への期待の高まりと共に、会社の業績も右肩上がりの堅調な推移が続いた。
 日本を震撼とさせたあのニクソンショックは、幸いなことに、ドル負債を多く抱えていた新会社にはプラスに作用し、会社は間もなくそれまでの累積赤字を一掃して黒字に転換、市場でも業界二位の地位をも確保する順調さだった。
 その後に襲った石油ショックでは、一時、低迷を余儀なくされたものの、果敢に執った積極策が功を奏し、気がつくと、その危機をも無難に乗り切っていた。十周年を過ぎる頃から、販売の拡大、加えて、それまでの輸入品を軸とする販売から国産品の増加による収益性の改善も手伝って業績を大幅に伸ばすことが出来た。
 一方、私的な面では、多忙な仕事にかまけて家庭は雅子に丸投げの状態が続いた。二人の息子達の世話や教育は全て雅子に任せ、相坂の時間は全て仕事に向けられていた。
 そんな或る日、姉の久子から電話があり、両親が弱って来ているので何とか考えて欲しいという内容だった。結婚してまだ十年目に入った頃で、父親が七十四歳で、母親がちょうど六十五歳になったばかりだった。たまたま、何かの拍子に母親が足を挫いて不便していると訴えていた。
「取り敢えずは、お手伝いさんを雇って見て貰おう」雅子と相談した一考が決断し、直ちにそのアクションを採った。毎年寿命が延びている今の世の中では、六十五歳ならまだまだ元気なはずだと相坂は自分に言い聞かせていた。
 しかし、数ヵ月後にこのやり方を中止することになった。気のいい母は、お手伝いさんに気を遣って手伝ったりし、返って疲れを招くことになったのである。そんな生活に慣れていなかったが故の思わぬ成り行きだった。
 そして、思案の末に一考が捻り出した結論が、妻と子供たちを両親の元に送り込み、別居生活に踏み切るという思い切った手段だった。(以下、明日に続く)

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240 井川放出?

 遂に、ヤンキースも我慢できなくなったようだ。井川慶投手の放出を決めたと報道されている。31億円強の多額の投資が期待はずれだったということになる。とりあえずは、2勝を上げたものの、あれだけコントロールが悪くて、四球が多く、肝心なところで痛打を浴びるようでは、首脳陣からの信頼を得るのは難しいだろう。
 当初は、降板の度に「いろいろ勉強になります」と殊勝に答えていたが、そんな答え方に、ファンとしていらいらしたものを感じていた。何時までも高い授業料を支払って、勉強されているだけでは採算が取れないと言うのがヤンキースの立場だろう。そういう意味では大リーグは非情で明快だ。
 数年前からあれほど強く大リーグ入りを熱望していて、やっと果たしたそのチャンスが、こんな形で挫折を見るのはファンとしてはとても残念だ。これから先、どうなるかは不透明だが、「力はあるはずだ」と信じているので、残されたチャンスにかけて欲しい。

連載(205) 難病との闘い
      第八章 二人の生い立ちから病気発症まで(14)

 雅子は、夫が子供に対してどのような父親振りを示すかに、ちょっぴり不安があった。それというのも、何となく不器用な性格で子供を扱うのが苦手のように感じていたからである。また、この頃の一考は仕事が多忙で、そのような時間を取ること自体がが容易でなく、その応接の仕方が心配だった。
 しかし、そんな懸念は杞憂だった。思ったよりも子供が好きなようで、時間が許す限り、優しく接してくれていた。そして、子供が歩くようになると、週末には近くの遊園地に足繁く通ってくれた。
 千葉にいる頃は、船橋近くの谷津遊園、或いは少し足を伸ばして行川アイランド、日吉に移ってからは、次男とも一緒に揃って東急沿線の多摩川園、二子多摩川園、読売ランド、或いは少し足を伸ばして豊島園、更には、桜木町の山下公園や横浜港の氷川丸などで楽しむことが多かった。
 或るとき、山下公園へ行ったとき、それまでに何回か乗ったことのある氷川丸に、太郎がもう一度乗りたいと言い出したのに、夫がもう帰ろうと譲らず、大人気なく二人が喧嘩をし始めるといったいざこざもあったが、今では懐かしい思い出だ。総じて言えば、遊園地巡りに関しては、今でも和やかなひと時を過ごしたことが思い出され、父親としての最小限の役割を果たしたように思う。
 その一方で、夫は仕事で多忙であっただけに、家庭を犠牲にすることも多かったが、それ自体は止むを得なかったと思っている。しかし、子供を相手にキャッチボールしたりするのような運動や趣味的な面での相手は、自分も得意でなかったこともあって、私に任せた形になっていた。仕方なく、近くの水泳クラブ、スポーツ少年団に入れたり、そろばん塾などに通わせて、その才能の引き出しに努めたが、父親が自ら施すような成果には、つながらなかったようだ。
 家族揃っての一泊旅行の思い出は数多くない。両親を招待して、二人の息子と一緒に松島、平泉中尊寺を回ったことがあった。義父が73歳の時で、結果的には、それが両親と一緒の旅行の最初で最後だったと思う。それ以外では、鴨川シーワールド、大阪勤務になってからの鳥取砂丘、淡路島などが思い出される程度で貧弱だ。
 そんな実情から、子供たちから逆に、白馬村に行きたいとせがまれた事があった。そこで漫画村が開かれていて、日本旅行が寝台特急で行くメニューをPRしていた。夫の大阪勤務時代のことだったが、相変わらずの多忙で叶わず、仕方なく、自分が二人の子供を連れて旅行したのが懐かしい。一考は、そのことが気に入らず、暫くの間は不機嫌だったのが苦い思い出だ。この時には、長男が、自発的に列車の時刻表を調べたりして大いに手助けしてくれたのが心強かった。
 総じて、子供たちに、強いインパクトを与えたのは、日吉にいた頃の楽しい幼年期の生活にあったようだ。特に、近くのK大学の構内を幾度か散歩したことが、太郎には、K大学進学につながった。また、二郎も、兄以上に、東京、横浜への思いが強かったようで、その後、受験に際しても、関西の大学に見向きもしなかった。どうやら、二人の子供たちには、日吉時代に、その後の人生の起点があるように思われる。(以下、明日に続く)

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239 野中広務

 筆者が現役を退く頃、よく野中広務さんに似ていると言われたことがある。当時は内閣官房長官だったと思うが、話題を集めていた人物だっただけに、そこそこの気持ちで受け取っていた。京都府の出身だけに親しみはあった。
 しかし、その後、橋本内閣が、日本歯科医師会からあの一億円献金を受けた件で、同席していた同氏らは徹底して、自分は知らないと白を切り通している。この事件が発覚して以来、筆者の同氏への不信感は増すばかりだ。今朝も、TBSの時事放談で、テロ特措法は延長することはないと論じていたが、そんなこ胡散臭い経歴を持つ人物が、偉そうなことを言っても説得性があるとは思えない。
 そもそも、時事放談は、半世紀前の1957年に始まった番組で、朝日新聞出身の細川隆元と日本経済新聞出身の小汀利得両氏の歯に衣着せぬ毒舌が評判を取ったが、1987年に一旦終了した。それが2004年4月にリメークされた歴史ある番組だけに、疑惑の人物をレギュラーに選んでいるTBSの見識を疑いたくなる。

連載(204) 難病との闘い
      第八章 二人の生い立ちから病気発症まで(13)

 それから間もなく、夫の仕事の関係で、住まいが千葉に移った。市原市にあった研究所と東京の営業を掛け持ちすることになったからだった。その頃から、夫が、よく仲間の方を家に連れて来ることが多くなった。時には、ふいに連れて来ることもあり、その応接に戸惑ったこともあった。しかし、そんなことの積み重ねで、あり合わせの食材で適当な持て成しの料理を作るコツを身に付けることが出来た。
 千葉に移って一年ほどした頃だった。関西地方に出張中の夫がどうやら列車事故に巻き込まれたのではとの心配な連絡が会社から入って来た。大阪―名古屋間の近鉄線で特急電車の衝突事故が起きていて、相当な死者が出ていた。連絡をくれた同僚の話では、時間的にみて、その事故を起こした電車に乗った可能性がありそうだという。思いも寄らない一報に不安で一杯になった。夫からは何の連絡もなく、夕食時になっても帰って来ていなかった。携帯電話もない時代で、頭の中では最悪の事態をも考えたりし、これからどう生きて行けばなどと不吉なことが頭に浮かんだりしていた。幸い、そんな心配をしているとは知らない夫は、何の予告もなくふらりと帰って来た。ドアを開けて夫の顔を見た時には思わず嬉しくて抱き絞めたのを覚えている。幸いにも、事故の直前の電車に乗っていたということだったが、夫婦という絆を改めて意識した瞬間だった。
 夫の父方の祖母が老衰で死亡したのは、その一年後のことだった。その時も、夫が関西方面に出張中で両親宅に宿泊していた。翌朝にその連絡を受けて、自分は子供を連れて急いで帰宅したことを昨日のように思い出す。夫の話では、夜中だったことで、山科で開業医をしている自分の兄に頼んで来てもらい、死亡確認をしてもらったと云う。近くの医者に頼めばいいものを、わざわざ山科の兄のところに頼む夫の考え方が好きではなかった。親戚という事で頼りにしてくれるのは悪い事ではないが、主治医でもないのに、そんな時だけ、自分の兄を煩わせるのが気になるのだった。
 慌しい生活が続く中で、幸い子供は順調に成長し、それまでの2DKでは狭くなり、住まいが横浜の日吉にある親会社の社宅に移った。近くにK大学の日吉校舎があり、環境に恵まれた処だった。住まいの広さが3DKと少し広くなったところで、間もなく次男の二郎が誕生した。女の子を期待していた自分には少し不満だったが、健康な子供の誕生に、小さな幸せを覚えていた。(以下、明日に続く) 

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238 サブプライム同時株安

 米国の信用力の低い個人向け住宅融資を「サブプライムローン」というそうだが、九日の欧州市場で、この関連の金融商品が市場で買い手がつかず、現金化ができなくなったことが発端で、世界同時株安が起きている。昨日の東証も、日経平均で400円以上の下げとなり、その後開かれた欧州市場でも大幅続落が起きている。注目された米国市場だが、欧州の結果を受けて、ダウ平均は寄付きから更なる落ち込みとなり、一時は200ドル以上の下げが続いたが、今朝の引き際にかけて少し盛り返し、結果的には、前日比31ドル強の小幅な下げで終えた。
 さあ、週明けの東証はどんな展開を見せるのか、下げ止まったと見ていいのかどうか、不安をもって見守りたい。
 そういえば、不安を持って見守っていることが多い今日この頃だ。安倍内閣の支持率、朝青龍の動向、エキシポランドの再開、女子マラソン高橋尚子の復活、阪神の先発投手陣など枚挙に暇がないが、何よりも心配で不安なのは、パーキンソン病と闘っている愛妻、雅子の症状の進み具合であることは、申すまでも無い。

連載(203) 難病との闘い
      第八章 二人の生い立ちから病気発症まで(12)

 神奈川県の大船にある新築の二階で新婚生活が始まった。松竹大船撮影所の近くである。学生時代に、将来は鎌倉に住んでみたいと思っていたこともあり、その意味では、その希望に近い所で新生活をスタートすることになったことは嬉しかった。
 当初は、自分が遠い関西から一人出て来ていて、近くに知り合いもいないということで、夫もそれとなく気を使って、なるべく早目に帰って来てくれていた。確かに、親、兄姉達から離れて生活する心細さはあったが、それほど寂しくは感じていなかった。掃除や洗濯、買い物や、料理をしたりすることで、あっと言う間に時間は過ぎていった。料理については、学校に通ったりして、それなりに勉強してはいたが、いざとなると、本を見ながらの作業となった。それでも、自分の作った料理を夫が美味しそうに食べてくれることが嬉しかった。そうこうするうちに、夫の帰宅時間は段々と遅くなり、一年も経つと深夜近くになることも多くなった。それでも、その頃は、なるべく夫の帰りを待って夕食を共にすることにしていた。
 その頃の生活では、これといって困ったことはなかったが、やはり、夫の姉妹達への気遣いではそれなりの難しさを感じたものだった。それは、結婚して最初のお正月を夫の家で過ごした時のことである。その時点では、夫の五人の姉妹の中では、長女の綾子さんだけが嫁いでいたが、後の四人が未婚で両親と一緒に生活していた。そこで最初に気づいたことは、家族の絆が異常に強く、そこに入り込むには、正直言って相当な勇気を必要としたことだった。それでも、最初の年だったこともあって、皆も気を遣ってくれて、それほど目立ったトラブルもなく過ごせたが、何となく将来の大変さを予感させたのだった。
 結婚して一年ほどして妊娠していることに気づいた。充分に注意していたのだが、軽い散歩ということで、鎌倉を歩いたのがいけなくて、四ヶ月目で流産となった。大変悲しい思い出だった。まだ自宅に電話がなかった頃で、夫が公衆電話を探して実家にその結果を伝えた時、電話に出た二番目の義姉の久子さんが、「お気の毒だ」とか「お大事に」というような慰めや励ましの言葉はなく「そんなことよりも、今、一番下の妹が、物凄い熱で大変なの」とそれ処ではないといったそっけない返事だったと夫が憤慨しているのを見て、夫の姉妹の絆の強さを改めて思うと同時に、自分の不注意を悔いるのだった。幸い、それから、一年半後には、その貴重な経験を生かし、無事に長男、太郎を出産した。(以下、明日に続く)

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237 改めて、王選手の凄さ

 海の向こうの米大リーグで、サンフランシスコジャイアンツのバリー・ボンズ選手が、それまでの記録保持者だったハンク・アーロン選手の生涯ホームラン756本を追い抜いて、昨日現在、757本まで到達している。しかし、同選手にはドーピングの疑いもあり、その記録にも、必ずしも国民からの絶賛がある訳ではない。
 ここで、改めて、あの選手の偉大さ、凄さを思う。生涯ホームラン数、868本は、ボンズ選手のはるか上で、恐らく、今後も破られることのない偉大な記録だ。
 そこで、思い出すのが、イチロー選手の記録だ。2年前に記録した年間案打数262本は、86年ぶりに塗り替えた偉大な記録だった。
 このように、日本人選手の二人もが、本場の米国選手を凌ぐ大記録を残していることに面目躍如たるものを覚え、その偉大さに敬意を表したい気持ちだ。

連載(202) 難病との闘い
      第八章 二人の生い立ちから病気発症まで(11)

 それから数日後、何気なく見ていた新聞に、相坂と一緒に食事をした中華レストランが、火事で焼失したとの記事を発見した。それは神様からの自分への何らかの暗示ではと思い、この話はなかったことにするのがいいのかもしれないと思うのだった。
 そんな乗り気のない話であったので、この話は進展しないまま時が流れて行った。この間、友人達からの誘いもあって、スキーに行ったりして気分を紛らわせていた。しかし、その後のお見合い話が、それまでのような頻度から急に途絶え始めていたこともあって、少々焦燥感を覚え始めていたのも事実だった。二十四才と言えば、今なら、全く焦る事もない年齢だったが、当時では違っていて、二十五歳が一つの女盛りの分岐点と見られていた。それと言うのも、十二月二十五日を過ぎると皆から見向きもされなくなるとの例えから、クリスマスケーキと揶揄される時代だったからである。
 そんなこともあって、芽生え始めた重苦しい焦燥感で、気持ちの整理がつかないまま、その年のゴールデンウィークを迎えた。このタイミングを捉え、仲人さんから、相坂がこちらに帰って来ていて、是非とも会いたいとの申し出があると伝えてきた。そして、そこが如何にも自分らしいのだが、心が定まらない優柔不断のまま、何となく再会に応じたのである。
 その優柔不断が切っ掛けとなって、結局は結婚をすることになって行ったのは、それこそ神の思し召しとしか言えない。相坂は、前回口走った「サラリーマンは仮の姿だ」と言って誤解を与えたことについては、「自分の不徳の致すところで、少しでも自分を大きく見せたかったからだ」と言い直し、「若し、自分と結婚してくれるのなら、君の幸せのために全力を尽くす」と言って、自分の強い気持ちを披露してくれた。ありふれた言い方だったが、その言葉で、もやもやが解けて行ったのも事実で、頭の片隅に残っていた「それくらいのチャレンジ精神はあった方がいい」と言った父の言葉が、自分の決断を促す決め手となった。母が気にしていた子会社への出向については、「その会社が扱っている新素材は将来性がある素材」との父や兄の見解が、母の納得を導いたようだった。
 ただ、相坂が長男で多くの小姑がいることが気掛かりだったので、「自分なりに頑張って和を構築するように心掛けたいが、その辺りが心配だ」と訴えたのに対し、相坂から「大丈夫、自分がしっかりとサポートする」と力強い言葉を得ての決断だった。
 それからは順調に話が進み、その年の十一月の勤労感謝の日に結婚式を挙げた。当初、まさか、結婚することになろうとは思っていなかっただけに、人と人との結びつきに、理屈ではない、運命的で神秘的なものを感じたのだった。(以下、明日に続く)

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236 かっこいい? 小沢代表

 昨日、異例の米国のシーファー駐日大使が小沢民主党代表を訪問した。テロ特措法延長に理解を求めたのだ。にこやかな表情で受けて立った小沢氏は「米中心の活動には参加できない」ときっぱりと反対の意を表明した。さすが小沢さんと言いたいところだが、果たしてそうだろうか。民主党内にも別の考え方の人も多い。気になったのは、報道では、自らが引く余地を残していないような反対のようで、今後の展開が懸念される。
 この日、訪米中の小池百合子防衛大臣が米国要人と会談し、同法案の延長に努力すると表明し、かつて支えた小沢代表を非難した。どちらが、かっこいいのだろうか。選挙で勝って参院の第一党になったからには、民主党にも、国益を考えた対応が要求される。
 高校野球が始まった。開会式での選手宣誓も恒例の出し物となり、チーム全員が考えた内容が披露される。今年は、前橋商(群馬)の樺沢健主将(3年)が堂々とその役割を果たした。最近は、多少長めになる傾向にあるが、これは、真から、かっこいいセレモニーで、彼らの青春のいい思い出になるだろう。

連載(201) 難病との闘い
      第八章 二人の生い立ちから病気発症まで(10)

 その相坂とは京都市内のホテルのロビーで顔を合わせた。言葉を選ばずに言えば、一目見て、自分のタイプではないというのが第一印象だった。背が低くて容貌も垢抜けせず、真面目そうな堅物で、いわゆるがり勉タイプの典型だった。さりとて、直ぐに「さよなら」する訳にもゆかず、母と仲人さんの顔を立てて、渋々ながら、その日の夕食まで付き合った。ホテルを出たところで、偶然に友人がこちらに向かって来るのが目についたので、失礼だとは思ったが「少しの間、離れて歩いて欲しい」と頼んだのを覚えている。この段階では、結婚を意識するような相手ではないと感じていたからの咄嗟の判断だった。
 また、会話を進めて行くうちに、何となく頼りなさを感じていたのも事実だった。それと云うのも、京都の大学を出ていながら、京都にはそれほど精しくなく、夕食の場所についても、何処かいいところがないかと逆に紹介を求められたのである。仕方なく、以前に友人と何回か行った事のある中華レストランを紹介したのだ、
 そして、その店で、何となく交わしていた会話で、自分は、今はT企業の子会社に出向していること、更には、何を思ったのか、サラリーマンは仮の姿で、近い将来は小説家を目指したいと言い出したのには、心から驚いた。安定したサラリーマンの妻を目指していた自分には、思いも寄らない告白だった。面白い事を言う方だと多少の興味が湧いたが、家に帰って母に話すと「自分の一生を預けるんですよ。T企業という会社にいるからこそ、いいじゃないかと納得して勧めていたのに、それが、今は出向、その上、将来は小説家なんて夢のようなことを言っている男には、あなたの将来を託す訳には行かない」と話が違うと怒り出した。側で黙って聞いていた父が「それくらいのチャレンジ精神を持っていること自体は悪い事ではない」と違った見方をしていたのが、何故か自分の気持ちの中に妙に残っていた。(以下、明日に続く)

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235 堪えられるか、安倍総理

 第167臨時国会が始まった。参院が与野党逆転での緊迫した国会である。そんな中で行なわれた、自民党代議士会や参院の地域別の総括委員会は強烈だった。安倍総理を前にしての厳しい退陣論や辞任勧告が展開された。精彩のない苦しそうな安倍総理の顔は、見るに忍びないものがあった。果たして、安倍さんは堪えて凌ぎきれるのか、今、まさにその瀬戸際にいる。
 今後の内閣支持率が重要な鍵を握るが、これが10%台、或いは一桁になれば、もはや頑張りも利かなくなるだろう。人心一新の内閣改造まで持つかどうかが心配になってている。頑張れと言いたいが、そんなにまでして頑張って意味有るのか。しかし、ここまで来ると、既に「潔さ」はなくなっている。かわいそうだ。
 話は変わって私事だが、難病の妻の介護も厳しさを加えてきているが、筆者の場合は頑張るしかない。いずれは、介護専門の病院にお世話になることになるだろうが、それまでは、しっかりと頑張って、少しでも妻の役に立ちたいと思っている。

連載(200) 難病との闘い
      第八章 二人の生い立ちから病気発症まで(9)

 自分に特別の結婚観があった訳ではなかったが、普段の父の仕事振りを目の当たりにしていて、開業医だけは避けたいとの思いが強かった。父は大変な働き者で、朝早くの診察から、夜遅くの往診まで働き詰だった。そんな父に何とも言えない気の毒さを感じていたからである。急患のために、食事の合間にでも、飛び出して行く父を見ていると、家族のために時間を取る事がままならない家庭は、自分の理想の家庭とはほど遠かった。そんなことから、父を反面教師として捉え、自然と平凡なサラリーマン家庭を夢見るようになっていた。
 大学卒業後は、先ずは旅行会社にアルバイトとして、暫く席を置いたが、これが思惑と違って少々戸惑った。そこでは、、英文学科を出ているということで、主として外国人を相手の窓口業務や、京都国際会館などの市内名所に外国人を案内するような仕事が与えられたのだが、英会話は殆どやっていなかったことで、コミニケーションがスムーズに運べず、辛い仕事となった。やはり、机上の勉強と、生きた会話とのギャップを、痛いほど思い知らされた。「困ったものだ」「どうしたものか」と躊躇していた時に、ちょうど、K大学の工学部の教授秘書の話が舞い込み、これ幸いと喜んで転職した。
 これらの仕事に関しては、いずれも、母の考えに従ったもので、はっきりとした就職という形を取らずに、アルバイトという形で携わり、いいお話が飛び込んで来るタイミングを計っていたのだった。
 教授の秘書をしている頃の話である。母の厳しい管理の目を盗んで、初めて心を惹かれた研究者との出会いがあった。容貌もしっかりした二枚目で、研究室でも将来を嘱望されていた。一時は、互いに結婚を意識するまで発展したのだが、相手が垣間見せる打算的な上昇志向とマッチせず、二人の間に隙間が生じて行った。去るものは追わず、と言うのが、自分の考え方で、特に傷ついたといった訳ではなかった。いずれにしても、自分の周りには、その気になれば、幾らでも候補はいると高をくくっていたし、事実、お見合い写真も多く廻って来ていた。それらの中には医者もいたが、サラリーマンが殆どで、いずれも、K大学の卒業者だった。
 確か、七、八回目のお見合いだったと思う。結婚することになった相坂と初めて顔を合わせた。相坂が東京勤務だったことから、ちょうどお正月に滋賀の大津の自宅に戻って来ているタイミングを捉えての顔合わせで、ちょうど二十四歳を迎えた直後のことだった。
 相坂もK大学を卒業していて、一流のT企業に勤めているということで、相手の選択にうるさい母が強く進めてくれたのだった。この頃になると、母は「雅子、あなたももういい年になったんだから、これが最後のチャンスかも知れないよ」と半ば脅しで、決断を促すようになっていた。(以下、明日に続く)

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234 江田五月

 参院議長に江田五月氏が決まった。自民党以外からは初めての選出で、新しい歴史が始まる。
 同氏は1941年5月生まれであるから、筆者と同年生まれだが、学年は一年後輩である。東大の教養部時代に全学連の議長として学生運動を指導していた記憶は生々しい。そのことで一旦退学処分を受けた。1年後に、学生運動と絶縁し、東大に戻った。復帰後は、一転学業に精を出し、在学中に受けた司法試験も一発で合格している。
 ご尊父の江田三郎さんは、ソフトなイメージで社会党の全盛時代を支えた方で、筆者も好感を抱いていた一人だが、その急逝で後を継ぐ形で政界入りしたが、細川内閣で入閣を果たしたものの、その活躍は今一つだったように思う。果たして、江田五月氏は、どんな手腕を見せるのか、今後の活躍を注視してゆきたい。
 先ずは、テロ特措法をどのように扱うか、興味深々である。

連載(199) 難病との闘い
      第八章 二人の生い立ちから病気発症まで(8)

(2)雅子の生い立ちと結婚生活
 父は京都市内で開業している小児科の町医者だった。雅子はその五人兄姉の末っ子だったが、いわゆる生みの母の思い出は、残念ながら、何一つ残っていない。それというのも、母は自分を生んで間もなく体調を崩して亡くなってしまったからである。ちょうど終戦間近のことで、折り悪く父が召集で遠く熊本にいて、普段なら直ぐに入手できた薬が間に合わず、命を落とすと云う思わぬ不幸だった。その意味では、母も戦争の気の毒な犠牲者だった。
 数年後、父は再婚した。従って、自分は父の後妻に育てられた。新しい母は、自分の子供を作る事はせず、五人の子供をあたかも自分の子供として育てることに専念した。その意味では、立派な意志の持ち主だったと言える。従って、自分にとっては、育ての母を本当の母親として心から慕って来ていた。母は、躾や教育にはとても厳しかったが、それが母親としての愛情の証であったと、後になって、本当に感謝している。
 また、一回りぐらい違う姉の霧子が、もう一人の母親のような形で、いろいろと気遣って教え育ててくれたことも有難かった。
 今となっては、皮肉なことなのだが、小学生の高学年になった頃には、健康優良児に選ばれ表彰を受けたこともあり、健康には殊の外自信を持つことが出来た。忙しい父親だったが、それでも年に一度ぐらいは、家族全員でする旅行が楽しみで、天橋立や北陸の温泉など、多くの楽しい思い出が、今でも記憶の中に生きている。
 高校から大学への進学に際し、その進路選択では少々躊躇した。幸い、成績は出来た方だったので、国立の一流大学への進学を考えたが、「女はそんな男と競うような勉強をするよりも、女らしい教育を受けた方がいい」という母の強い説得もあって、女子大を撰んだのだった。
 大学生になると、母の管理はより厳しくなり、特に男性との付き合いでは、その厳しさも徹底していて、夜遅くなるようなことは絶対に許さなかった。
 自分は、いわゆる美人系統に属するタイプではなかったが、人なつこい容貌に、それなりの人望もあって、声を掛けて来る男友達も少なくはなかった。入学して間もなく、マンドリンクラブに席を置いていた頃だったが、部員間で自分を巡るトラブルが起き、人間関係で居心地が悪くなって即刻退部したこともあった。
 その頃から、特に母の管理も一層厳しくなっていた。典型的な昔風の考え方だった母は、手の届く範囲での仲間達との、いい加減な恋愛を認めようとはしなかった。大学を卒業するにあたっても、なるべく早く嫁ぐ方が女の幸せになるとの考えで、正式な就職を避け、大学教授の秘書などのアルバイト的な仕事をしながら、適切な相手との出合いを待つ形となっていた。そこには、惚れた腫れたの恋愛結婚は、深みがなく、また、当たり外れも多くて良しとせず、しっかりとした裏づけのあるお見合い結婚を強く志向していた母の考えが優先していた。(以下、明日に続く)

233 鬱病一歩手前

 横綱朝青龍が謹慎処分のペナルティを受けて精神的に大きな打撃を受けているという。昨日診断に当たった精神科医は、「鬱病一歩手前」と診断し、最良の方法で療養することが必要との見方を示した。モンゴルでの療養がいいのではという。
 人間、体の大きさや外見だけでは、判断し難いことが多い。特に、精神麺での症状は、その最たるもので、判断が難しい。
 ところで、安倍総理の選挙後の対応を見ていると、ここにもその複雑さが垣間見える。昨日、突然、原爆症認定基準を見直すことに言及した。政治資金の透明性に関するものの考え方でも、1円以上の公開を検討させるなど、このところの対応は、いかにも泥縄式で性急だ。まさか「鬱病一歩手前」ではないとは思うが、心配な動きが目立つ。

連載(198) 難病との闘い
      第八章 二人の生い立ちから病気発症まで(7)

 妻となった雅子は、その人懐っこさと初々しさが売り物だった。結婚披露宴では、仲間から「美女と野獣」とのからかいが出たほどの見かけが不釣合いの二人だった。負け惜しみではないが、不細工を自認していた一考にとっては、逆に、その不釣合いが自慢でもあり、快感を覚えた時期があった。
 住まいは、それまでの鎌倉山寮にさよならし、大船駅からバスで10分程度の距離にある新築のアパートに定め、新婚生活を始めた。雅子の明るくて思いやりのある優しい人柄は、一考の理想に沿ったものだった。それまで、頭に描いていた理想の家庭が、現実の世界として存在していることに、一考は、満足感と充実感に満喫した生活を楽しんでいた。
 新居から会社へは一時間半足らずの距離だった。京都市内生まれの雅子には、当然ながら、その近辺には友達や知り合いがないだけに、雅子のことを考えて、新婚当初の一考は、なるべく早めに帰宅するように努力していた。
 雅子は、紛れも無く、容姿、人柄、人間性、学歴などから見て、非の打ち所の無く、お嫁さんにしたい女性として、相当な人気があったはずである。当然なことに、多くの男性からも目を掛けられていただろう。そんな彼女が、自分を相手として選んでくれたことへの感謝が、新婚生活を重ねていくうちに、次第にある思いに成長して行くのを意識し始めていた。
 それは、彼女が自分以外の男性と結婚した場合よりも幸せにすることが自分の使命であるという思いだった。たとえ、彼女の勇気ある決断が、単なる打算に基づいたものであったとしても、感謝への思いは変わらなかった。
 その思いを実現するためには、経済的な裏づけともなる然るべきポジションへの昇進、少なくとも、経営に携わる役員への就任は、何としても果たさなければと心に期し、それを妻への「約束」として、自らの心の中に密かに設定した。それは、まさしく、雅子に対する愛の証とも言えるものだった。
 そして、その約束を念頭に、一考は、仕事に集中し、会社に貢献するために、全力を尽くすのだった。幸い、上司にも恵まれ、仕事も順調に推移した。何しろ、基礎研究所にいた研究員が、全く世界の違うセールスを担当するという異色の転身が売り物で、新素材を拡販するには、そのバックグランドが大いにプラスに作用した。
 こうして、活気のある楽しい毎日があっという間に過ぎ去っていった。気になったのは帰宅時間が、徐々に遅くなり始めていたことだったが、それも、雅子への約束を果たすためだと自分に言い聞かせていた。(以下、明日に続く)

タグ : 朝青龍 原爆症認定基準 鬱病

232 生中継の迫力

 昨夜のテレビ朝日の全英女子オープン中継は、今までと違って面白かった。それは、それまでの録画での宮里藍横峯さくらショーではなく、その時点でのトップ争いを前面に出しての映像をダイレクトに楽しめたからである。お陰で、普段はほとんどカットされる不動祐里のプレイがふんだんに取り込まれていた。残念ながら、彼女のプレイは最悪で、結果的には81の大たたきをした。しかし、強風の中での悪環境下でのプレイだっただけに止むを得ない。それにしても、トップを突っ走るローレンス・オチョアは凄かった。そんな条件でも、きちんとイーブンで回っている。
 テレビ朝日に何があったか知らないが(多分、多くの苦情が殺到したのではないか)、生中継に切り替えた英断(当然なことなのだが)に拍手を送りたい。スポーツに限らず、政治でも、生の迫力に勝るものではない。今夜の最終日も楽しみだ。

連載(197) 難病との闘い
      第八章 二人の生い立ちから病気発症まで(6)

「自分は目下親会社からの出向の身であり、その会社は、まだ海のものとも山のものとも分からない新会社である」と、一考は臆せず、少しぎこちなかったが真顔で伝えた。何しろ、女性にとっては、自分の一生を託する相手を選択をする訳だから、それは、買い替えの利かない株を買うようなものだけに、提供した情報に幾ばくかでも詐欺まがいのことがあってはならないと考えたからである。特に、仕事に関する情報は、その人の経済力の判断の重要な拠り所になるだけに、正確に伝えておくことが大事で、そのことが、誠意の証と考えていたからである。
 それに対し、彼女がどんな反応を示すか不安だったが、少し首を傾げただけで、特に質問することもなかった。一考は、既に自分の誠意が伝わったのだと解釈して、一安心し、その場を盛り上げようと更に言葉を続けた。
「自分の今は仮の姿であって、いずれは会社を辞めて小説家になりたい」と、単なる夢として頭の片隅にあった思いを、大胆にも口走ってしまったのである。好感を持って貰うべく、或いは、自分の大きさを知って貰おうと、いいかっこしたつもりだったのだが、それは、相手に不安を与える迂闊な口走りだった。確かに、物を書くことは好きであったが、そんな才能の存在を示唆するような裏づけがあった訳でもなく、単なる趣味の世界での話だった。
 案の定、二人の交際は途絶えることになった。雅子との連絡が途絶えたのである。一考は、馬鹿な事を言ってしまったと反省はしたが、既に後の祭りだった。女性から見た場合、特にお見合いの場合は、その人の人間性もさることながら、何と言っても経済力が重要なポイントである。親からしても、安定した大企業に勤めていることが魅力であって、小説家といった先行き分からない男に娘を嫁がせたいとは思わないのが普通だ。
 本当に、馬鹿なことを口走ったと大いに反省し、女性サイドにとてつもない不安を与えた当然な結果であると頭では納得していた。それでも、大変魅力のある素敵な女性だっただけに、諦めずに、今一度挽回のチャンスを得たいと申し入れていた。しかし、一向に埒が開かないまま数ヶ月が過ぎた。さすがに、一考も落ち込んだ気分になって、半ば諦めるように自分に言い聞かせ始めていた。
 そんな時だった。五月のゴールデンウイークの直前になって、雅子が会ってくれるという連絡を受けたのである。一考は、神様が自分を見捨てていなかったことに感謝し、その貴重な再会で、誤解を与えたことを詫びると共に、改めて、自分の将来への考え方を訴えたのである。雅子が再会に応じてくれた背景は承知していないが、ともかくも、一考の誠意が通じて、再び交際が復活した。
 幸い、その後は順調に話が進み、その年の11月に目出度く結婚に漕ぎつけることが出来たのだった。(以下、明日に続く)

タグ : 全英女子オープン オチョア 宮里藍 横峯さくら 不動祐里

231 株価に不安

 今朝のニューヨークの株価が、ダウ平均で大幅の281ドルも下げて、13182ドルとなった。ついこの間の7月20日に、史上最高の14000ドルを越えたことで、話題になったのが夢のようだ。僅か、2週間で1000ドル近い下げは何を意味するか。今朝の動きも、各種経済指標が下がったことが原因していると解説しているが、また、バブルがはじけたのではないかの不安がある。
 安倍内閣の大敗で、東証の一時的な下げは予期していたが、この一週間の東証の動きは極めて不透明だ。米国で株価が上がっても、追随していない弱さがあった。それだけに、週明けの寄付きがどうなるか、大変心配である。不安な目で静かに見守りたい。 
 いずれにしても、梅雨は明けたが、世の中は不安なことが多すぎて、すっきりしない。安倍内閣の対応、動向はその最たるものだ。
 
連載(196) 難病との闘い
      第八章 二人の生い立ちから病気発症まで(5)

 鎌倉での寮生活は快適だった。独身者の住む鎌倉山寮は、多くの木々に囲まれた空気のきれいな山の一角にあった。いわゆる俗世間とは隔離された環境下に建てられていて、なるべく研究に専念できるようにとの配慮が窺われた。テニスコートが一面あって、週末には健康的な汗を流したことが思い出される。
 大学を卒業するまで自宅からの通学で、家を離れて生活することが無かっただけに、今まで味わったことのない新鮮で、何か新しい自分を発見するような浮き浮きした楽しい毎日だった。自分を変えたいと意識していただけに、神が与えてくれた絶好のチャンスだとさえ感じていた。そういう意味で、一考は、毎日毎日を味わうように楽しく過ごすことに満足していた。
 しかし、そんな生活リズムに水を差したのが、姉妹達からの愚痴や不満だった。年末年始やゴールデンウイーク、或いは夏休みなどでの大津への帰宅した際に「長男ともあろう者が、家をほって遠くに就職した」とそれとなく非難を受けたことだった。特に、次女の久子のそれは厳しく嫌味があって、一考の気持ちをうんざりさせるのだった。鎌倉へ戻る新幹線の中で、面白くない重い気分を何回も味わった。その気分は、暫くは後を引き、それまでの快適なペースを取り戻すの、いつも数日を要したことを覚えている。
 しかし、一考のこの鎌倉時代は、姉妹達の面白くない非難で、恰も、時々紛れ込んでくる蛾のような虫に悩まされることがあったものの、総じて言えば、充実した快適な日々を過ごしていたことは確かだった。
 そんな一考にその人生を大きく左右するチャンスが巡って来た。それは、一考が新しい合弁会社に移って二年目で、二十七歳になった直後の三度目のお見合いだった。
 一考は、予てから、自分の定年退職時に子供達が独立していてくれる年齢を逆算して、遅くとも二十七歳までには結婚したいと考えていた。前二回の見合いでは、その意味では、まだ時間的にも余裕もあって、阿吽の呼吸が今一つだったが、今回は「制限時間いっぱい」の最後のチャンスとして捉えていた。
 相手は、京都の町医者の娘で山口雅子と云い、四年制の女子大卒でK大学の教授秘書をしていた。愛くるしい才媛で、周りの多くの男性からの人気も厚かったようだ。今でも記憶に鮮明なのは、その日、顔合わせを終えてホテルを出て歩き出した途端に、誰か知り合いの顔を見つけたのか「少し離れて歩いてくれますか」と頼まれたことだった。見栄えの冴えない男と一緒に歩いているのを見られたくはなかったのであろう。その時の気分は決して面白くはなかったが、一考の全体の印象は極めて良好で、是非とも前向きに話を進めてもらいたいと考えて、自らが積極的に誠意を示すことを思いついた。(以下、明日に続く)

タグ : ダウ平均 バブル 安倍内閣

230 厳しい処分

 朝青龍に二場所出場停止や長期間の謹慎処分など厳しい処分が決まった。長い間一人横綱を守ってきた貢献は多としながらも、今回の夏巡業の休場届にまつわる同氏の行動は許せないというものだ。それにしても、少々厳しすぎるのではという見方もある。モンゴルとの関係が悪化しないことを祈っている。
 一方、フィギュアの織田信成選手の酒気帯び運転でも、国際大会年内禁止などの厳しい処分が発表された。朝青龍の処分の厳しさが、多少は影響したようにも思える。
 いずれにしても、今まではこの種の違反や偽装の対応は甘かったのだが、一転して、厳しさが発揮されたことは、見せしめ的には効果があるだろう。 
 これに対し、政治の世界では、あまりにも曖昧なことが多い。特に、安倍総理には、今回の二つの処分の厳しさを学んでもらいたい。

連載(195) 難病との闘い
      第八章 二人の生い立ちから病気発症まで(4)

 何事もそうであるが、思い切った変革を行なうには、何らかの切っ掛けが必要である。
 大学を卒業し、社会人となった一考は、そのタイミングをまたとない機会と捉え、新しい人生を切り開く切っ掛けにすべく意識改革を目指したのだった。そのため、それまでのじめじめした自分にケジメをつけ、意識してポジティブな自分を打ち出すことに努めた。出来るだけいろんな場に顔を出し、積極的に場を盛り上げたり、会議では、プレゼンテーションに趣向を凝らしたりしたのもその一つで、努めて明るく振舞うように心掛けたのだった。
 しかし、人生はそんなに自分の思い通りには展開しなかった。入社後も、そんな努力にも関わらず、女性にもてないという本質的な点での改善は認められなかった。通常、若い男が新入社員として入社すれば、若いというだけで、それなりに女性達の憧れの対象となり、ちやほやされることが多い。しかし、何故か自分だけは別だった。その頃には忘れ難い面白くないエピソードは数多い。
 その一つは、入社後間もなくの話である。その頃に創刊されたばかりの女性週刊誌「ヤングレディ」に、若手社員紹介シリーズの企画があり、それに、自分を含む若手の研究員十名近くが、写真とコメント入りでグラビアに掲載された。発売直後から、掲載された多くの仲間には読者からのファンレターが次々と届いたようだった。多い人には、蜜柑箱に一杯もあったという。しかし、自分には見事に一通も来なかった。何とも云えない寂しさに堪えたものだった。
 今一つは、入社後、一年ほど経過して起きた話である。同期には自分を含めて五人いたのだが、あとの四人が揃って同じ女性に恋するというハプニングが起きた。つまり、自分だけが蚊帳の外にいて、その四人から相談を受けるという思わぬドラマに巻き込まれた。その時の心境はまさに苦く複雑なものだった。
 若い頃である。そんなことはどうでもいいと悟るように努めていたが、その一方で、このような自分にも、いずれは、人間全体で評価してくれる相応しい誰かが現れるに違いないと自分を鼓舞させるのだった。(以下、明日に続く)

タグ : 朝青龍 織田信成 ヤングレディ

229 阿久 悠

 5000曲の歌謡曲の歌詞を作詞したという阿久悠さんが亡くなった。70歳と言うまだ若い年齢での逝去は惜しみて余りある。最近では、カラオケで自分が好んで歌う曲の多くは、作詞は同氏のものが多い。
 最近では歌謡曲と呼んでいるが、筆者の学生時代の頃までは、流行歌といって、下品なものの代表で、そんなものに関心を持つことは、よくないと言う環境下で育てられた。一例として、長女が熱烈な美空ひばりのファンであったのだが、それを次女が馬鹿にしていたのが強く記憶に残っている。
 しかし、この年になって感じることは、歌謡曲が如何にうまく自分の人生を投影している媒体であるかということである。一つのヒット曲を耳にすることで、その当時の自分が思い出され、自分が何を考え、何に悩んでいたかが浮かんでくる。そして、多くの場合、その歌詞を口ずさむことも多い。
 歌謡曲の歌詞なんて、見方によっては、言葉を並べただけの大衆芸能に過ぎないという人もいるが、適切な言葉を的確にシャープに配置し、人の心を捉える技術は、磨かれた才能があって初めて実現する。阿久悠氏のあの外見から、多くの素晴らしい詩が生まれて来たことを思うと、才能と言うものに親しみを感ぜずにはいられない。同氏のご冥福をお祈りします。
 同じ日、安倍総理の取った赤城大臣の更迭という昨日のアクションは、そのタイミングなどから見て今一つインパクトを欠いているように映る。総理としての才能を充分に発揮されたものとは思えない。やることなすことが、このところ、叩かれる材料になっていることに、気の毒を通り越していて同情を申し上げる。頭の良いブレインはいないのか!!

連載(194) 難病との闘い
      第八章 二人の生い立ちから病気発症まで(3)

 幼少の頃から、一考は、阿久悠氏以上に見映えが今一つで、不器用で外見的に魅力に乏しい男だった。加えて、性格も内向的で、人見知りも結構強く、いつも家にこもって、一人でゲームを楽しむといった、今で云う「おたく」タイプの典型だった。また、異性に関しても、小、中学生の頃までは、女の子には関心はあったが、自ら動くといった行動に移すこともなく、いわば、晩生の少年として育っていた。
 小学生の高学年になってからの話だが、或る晩、一考が、眠ろうとしてうつらうつらしている時に、隣の部屋から漏れて来た両親のひそひそ会話の一節が、今でも記憶の隅に鮮明に残っている。具体的には「一考は、女の子にはもてそうにないね」という父のセリフだった。その頃は「もてない」という意味を正確に理解してはいなかったが、その言葉が、その後の思春期を通じて、知らず知らずのうちに意識の奥深くに浸透し、ボデーブロー効果となって、心の奥深く出大きくなっていった。 一考は、女ばかり五人姉妹の長男で、それだけに大事に甘やかされて育てられ、大学を出て就職するまでは、下宿などの外気に晒されることもなく、ずっと自宅からの通学だった。そのことが、一考の性格形成上でマイナスに作用したことは確かで、日陰で育った草木のように、精神面で強靭さに欠けるものとなった。加えて、生まれつき体格も貧弱で、小柄で背が低く、小、中学生を通じて、背の低い順に並ばされると、いつも一番前近くにいる常連だった。
 しかし、見掛けによらず、結構忍耐強く、高校生までは多少勉強が出来たということで、皆の関心を惹く存在であったことが、一考には数少ない精神面での拠り所となっていた。   
 ところが、自信を持って臨んだK大学入試では、うかつなミスが重なって、ぎりぎりで滑り込んだ事情から、唯一だったその拠り処の自信も影が薄くなり、逃げ道のない城壁の中に閉じ込められたような退屈で面白くない学生時代を送ることになった。そして、若くして、自分が女性にはもてない男だということを、弁(わきま)えた人間になっていた。
 幸いなことに、大学を卒業する頃になって、そんな自分に嫌気を覚え、何とかそのような暗い毎日から抜け出したいと思う強い気持ちが芽生え始めていた。しかし、ピストン運動のように自宅と学校を往復する学生時代の単調な日々の中では、これと云った打つ手を見つけ出せないまま卒業を迎えたのだった。(以下、明日に続く)

タグ : 阿久悠 安倍総理 赤城大臣 美空ひばり

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