あのマグニチュード9の大地震、大津波以降、日本はその対応で、ある種の火の車である。懸命に火消しに努めているが一向に収まる気配がない。そこへ再び大きな地震が、…。そんな中で、筆者にはいろいろと気に食わないことも幾つかあって、気分が宜しくない。
1.独り言コラム
一昨日の震度6強の激しい余震で、折角落ち着きを取り戻しつつあった被災者達の気持ちを振り出しに戻させてしまったようだ。天災の容赦ない厳しさを思う。
同時に、原発の意外な脆さ、特に電源システムの大事さがクローズアップされることになった。昨日になって明らかにされた事実として、他の原発でも際どい事故が起きていたことが分かった。青森の東通原発、宮城県の女川原発で確認されたのだが、電源がストップし、非常時のバックアップも綱渡りのようなリスキーな状態だったという。何とか大きなアクシデントには至らなかったが、下手すれば、福島第一原発の二の舞になっていたかも知れないという。心底ぞっとする話である。原発の安全神話は一体どうなっているのかと叫びたい気持ちである。
今回の一連の原発事故で分かったことは、あの水原弘の歌のタイトルの「君こそ我が命」にもじって言えば、さしづめ「電源こそ原発の命」ということである。先ずは、その観点からでも、早急に日本にある全べての原発の点検を行って欲しい。
話題は変わるが、どうなっているか、と叫びたいことが幾つかある。水泳のシンクロナイズドスイミングの指導者の井村雅代氏が、来年のロンドンオリンピックのメダルを目指して再び中国を指導することが決まったようだ。先の北京オリンピックで、中国を一気に銅メダルに導いた手腕は大したものだが、今度はそれ以上を目指すという。いろんな意味ライバル関係にある中国に、力を貸して日本と戦うと言う構図は面白くない。いったい、井村さんの頭の中はどうなっているのか。筆者は腹立たしさを禁じ得ない。何としても、日本チームは井村中国を倒してもらいたい。
5月の大相撲について、NHKは中継をしないようだ。NHKは本場所を中継するとしていて、「技量審査場所」と呼ばれる場所はその対象じゃないというらしい。何も、そんなことで杓子定規的に区別することもなかろう。被災者のお年よりの中には、相撲は待ち望んでいる人も多いはずだ。この場合は、もっと鷹揚な対応であっていいのではなかろうか。
杓子定規といえば、あの大震災が起きた時、東電の清水正孝社長は名古屋に居たようで、急遽東京に戻ろうと自社のヘリコプターを飛ばそうとしたらしい。ところが、管制官がその飛行を許可しなかったという。結果的には政治家を通して自衛隊の上層部に働きかけて許可を得て飛んだというのだが、超緊急の非常時の際の窓口の頭が固いのは困ったものだ。相手が東電社長だと分かっていての杓子定規な対応だけに合点がいかない。レベルが違う話しだが、筆者が、みずほ銀行に、難病の妻の通帳から振込みをしたいと幾度も申し入れたのに、窓口は頑として応じず、本人の同意が必要ということで対応しなかった杓子定規さを思い出す。
何事も臨機応変では困るだろうが、明らかに問題がないことが分かっていた場合にも、杓子定規の頑な対応には、いったい、どうなっているんだ、と激してしまう自分がいる。
2.今朝の一考、昨日の雅子
3時半起床。体重、61.3Kg。 午前中は雨である。しかし午後からは回復するそうだ。
昨日の雅子も、比較的安定していた。午後には入浴。その後はすっきりとした顔つきだった。細い目を少し開けてくれるのが、二人のコミニケーションの残された貴重なパイプなのだ。
3.連載、難病との闘い(166) 第三部 施設、病院での介護生活(67)
第四章 施設生活再開(26)
(3)施設生活アラカルト(その7)
雅子のような運動も出来ない単調な生活では、マッサージの類が効果的なものだろうということで、症状が軽いかなり早い段階からいろいろと対応して来た。
その手始めが鍼治療だった。実姉の霧子さんが、京都で特殊な鍼治療をやっている処があると知人から聞き込んだということで、そこに通うことになったのは、雅子がまだ一人で歩くことが出来た05年の10月半ばのことだった。それからおよそ3ヶ月に渡って、毎週1回の頻度で通ったが、京都の朝の街のドライブを楽しむことは出来たものの、その効果はこれといったものはなかった。
その頃、雅子が通う美容院で聞き込んだのが、電子治療のドクタートロンだった。取りあえず、近くにオープンしていた無料の会場に足を運んで試してみた。暫くトライを続けたが、この病気の本質から、そんな短期な試しで、然るべき結果が出るものではないと考えていた。いい加減な「どんな病気にも効く」と云う宣伝文句が気になったが、長期に使用することで、若しかしたらとの思いもあって思いきって購入した。06年2月半ばのことだった。一考の頭の中では、このぐらいの投資は、雅子の今までの働きを考えれば、止むを得ないといった判断があった。
その段階では、雅子の症状が今のような全面介護の状態まで悪化するとは想定しておらず、この設備が末永く活用できて、多少なりとも症状の改善に寄与すると期待があっての決断だった。
しかし、結果的には、その思いは空しく裏切られることになった。それから、およそ丸1年3ヶ月に渡って継続使用をして来ていたが、07年5月末に、この効果も不明のまま、雅子が肝心の機器の部品を自分で握れなくなったことで、自分一人での操作ができなくなり、遂に使用を諦めることになった。結果的に、その高価な電子機器も、今では無用の長物で、空しく自宅の雅子のベッドの近くに放置されたままである。何か使い道はないものかと思うが、そんなアイディアも思い浮かばず、引取りを交渉したが、値段は10パーセント程度ならという厳しい返答だった。そんなことで、ドクター・トロンは、仕方なく、貴重な(?)記念品として、残っているのは、何とも侘しい限りである。(以下、明日に続く)
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