人間は感情の動物で、落胆は健康上宜しくない。しかし、がっくりすることが、この世の中には多過ぎる。
1.独り言コラム
期待していた将棋名人戦での郷田真隆新名人誕生だったが、3勝3敗の後を受けて行なわれた最終局は、それまでの好局とは打って変わって、郷田九段のそれまでにない不出来な完敗だった。この日は、筆者は、少し早めの5時過ぎに、病院から帰宅して戦況を見守った。その時点での局面では、郷田九段にも楽しみな手が残っていて、逆転の可能性もあるような解説だったので、若しかしたらと、ちょっとしたときめきさえ覚えていたのだが、夕食休憩後に局面は急転、一気に差が拡大し、闘志を失った郷田が潔く投了した。
筆者は、気分的に「がっくり」して、病院通いで疲れていたこともあって、いつもより相当に早く寝入ってしまった。4月からの積み重ねてきた楽しみが、一気に消滅した虚しさに、何故か筆者が呆然としていたのである。単なるファンも、ここまでくると異常なのかもしれない。
ところで、自民党が揺れている。このままでは総選挙で下野することは必至であるだけに、何かしなければという思いが強いのだろう。一昨日は、東国原宮崎県知事に声を掛けたという。それに対し、同氏が総裁候補ならという条件をつけたという。冗談はお止しよと申し上げたい。宮崎県民は「がっくり」したのではないか。人気があっても、東国腹知事に関しては、そんな器ではない。野に置け蓮華草だ。
今朝のニュースで法務省が時効の扱いで検討を開始したという。これは、被害者家族からの要望が高いのを受けての検討開始のようだが、日弁連は、この動きに対し強く反対する旨の意見書を出すという。「何故だ!」と云うのが、被害者家族達の気持ちで、「かっくり」気分になっているのではなかろうか。
こう着状態、或いは、もうそんな問題は終っているというような扱いになってしまっていて、手の打ちようがなくなっているのが、北朝鮮の拉致被害者奪回の問題だ。最近では、もう話題もほとんど出て来ない。横田夫妻を始め被害者家族達の多くが、高齢になって来ているだけに、時間がなくなって来ている。被害者家族達の「がっくり」している心境を思うと、今一度、小泉純一郎―田中均のようなパイプが必要な気がしている。
株がまた下がり始めている。これまた、「がっくり」である。
2.プライベートコーナー
3時過ぎに起床。体重、59.3Kg。郷田九段が完敗でがっくりして早寝したので、早く目が覚めた。朝風呂。外は曇り空。
雅子は昨日で入院6日目。昨日の朝でも熱は下がっておらず、その後も一日中、体温は37.2〜37.8度で推移、少し心配である。一方、肺炎の菌の特定がまだ出来ておらず、抗生剤を前日から取り替えて様子を見ている。とにかく、先ずは肺炎を治すことなのだが、この状況では、初期の見通しの「1週間で退院」は無理のようで、まだまだ長引きそうだ。
3.蓮載、難病との闘い(887) 第三部 戦いはまだまだ続く(181)
第五章 季節は巡る(52)
2.初夏から梅雨へ(10)
(1)そんなの関係ない(その10)
雅子の症状の悪化は終っていない、徐々にではあるが、あらゆる面での悪化がひょっこりと顔を出してくる。それに気づくと、お前もかといった気持ちになって、がっかりしてしまう。
今、一考が恐れている悪化は幾つかのステップがあるが、ここでは全部を書くのを控えておく。しかし、そんな兆候に少しでも出くわすと、やっぱりといった気持ちで心が凄く痛むし、不安、がっかり、寂しさ、悲しさといった複雑な思いが交錯するのである。
実は、言いたくはないのだが、最近になって、一考は、あることが気になり始めていたのである。その兆候は3月の初め頃から見え隠れしていたのだが、4月の末から5月に入って、遂にその顔が何となくしっかりとしたイメージで見え始めたのである。
それは,、呼びかけに対する応答が曖昧になって来ていることである。二人の気持ちを結びつけて来ている唯一の絆とも言うべきコミニケーションパイプで、これが作動しなくなると、どのようにして意思疎通を図るのか、その手段に窮することになる。
段々と細くなっていたパイプだったが。それでも、一考が質問を繰り返す呼びかけに、イエス、ノーの応接でそのコミケーションを図ってきていたが、それが次第に曖昧になり、今では、イエス、ノーの区別がほとんど出来なくなって来ているのである。幾たびも呼びかけるのが切なく、それに対する反応だが、雅子は頑張って声を発するのだが、それがか細く凄く小さくて、イエスなのか、ノーなのかの区別がつかないのである。
そんな状態の中で、一考が注目し初めているのが顔の表情である。穏やかな顔の様子、それに比べて何となく苦しそうなしかめた顔の様子が見られるのだが、どちらかといえば、穏やかな顔を見るのが稀になって来ているのが寂しい。気になるのが、しかめ面と云うか、何となく苦しそうな表情の時で、何を要求しているのかを確認しようとするのだが、それが全く掴めないのである。これが、大変辛いことで、何とか分かってあげようと質問を繰り返し、その何がしかを知ろうと努める。しかし、ほとんどの場合において、何なのかが分からないのだ。そんな時は大変辛い思いのする時間である。
その一方で、何かをしてあげようかと問い掛けた際に、その嫌な顔をした場合は、それは否定の意味であることが分かった。従って、最近では、嫌だろうと思うことを言って見て、嫌な顔をすれば、その逆を望んでいるということになり、今では、貴重な確認の手段として使っている。(以下、明日に続く)
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